リビングとその横の寝室に渡って続くベランダは幅こそ無いもののそれなりに広く、洗濯物を干すのに不自由しない。この家は洗濯乾燥機だから特に干す必要も無いのだけれどせっかくの晴れ間、朝から時間があれば太陽の光に当てたいというのが誰しも思うことだろう。鳴海はまだ自室で惰眠を貪っている。そろそろ朝というには遅い時間だ。
 一応寝室扱いの部屋を最近使っていないな、と思いながらライドウはベランダへ続くサッシを開けた。ライドウ自身の仕事で忙しいのでどうしても互いの自室で休む事が多い。たまに同衾する機会があればまあどちらかの部屋で睦んでしまうことが殆どで、ここに住むようになるとき鳴海がライドウをからかいながら購入したダブルの布団は押し入れに仕舞われっぱなしだ。
 鳴海の部屋のシーツも剥がしてしまいたかったけれど、多少無茶をした自覚がある少年はあっさりあきらめて手の中の洗濯物を干し始めた。そうして漸く歌声に気づく。左隣のベランダから聴こえるこれは。
「……おはようございます」
「あ、ライドウ君か。おはよう」
 パーテーションの向こうからひょいと顔を覗かせたのは想い人と同じようで違う男だった。眼鏡の向こうに見える目はやわらかく細められている。
「いい天気だねえ、洗濯日和だ」
「助かりますよね」
「ほんとに」
 どうやら隣家の鳴海も洗濯を干しているらしく濡れた布を広げる音が何度かライドウのところまで響く。薄い壁越しに意味もないような会話を続け、あらかた干し終わった辺りで鳴海が煙草を吸い出したらしい。キィン、とジッポー独特の音がライドウの耳を打つ。純銀はちょっと音が重いって言うけどどうなんだろうね。言いながら愛しげにその銀色を指先で撫ぜていた姿を思い出し、壁の向こうであの時と同じ顔をしているんだろうなと思った。
「鳴海氏は?」
「寝てます」
「そっか」
 煙の端が僅かにライドウにも見えた。慣れた香りなのに感じる違和感。電線で何事かさえずっていた鳩がばさりと飛び立って視界から姿を消してしまった。反動で揺れる黒い線をぼんやり眺めているうちに、もう一度独特の金属音。
「夏野菜、知り合いからいっぱいもらっちゃったんだけど食う?うちのも大喰らいだけど流石に量が多くてさ。それに早めに食った方が美味いし。要るなら後で届けるよ」
「それはありがたいです。こちらから伺いますから」
 はは、小さな笑い声が穏やかな空気に溶けた。
「わかった、包んどくよ。……あぁ、そういやこないだ騒がしかったね。喧嘩でもしてたか」
「、」
 息を呑んでライドウは壁向こうの鳴海を見た。灰色の板しか見えないのに鳴海が目を細める様子が想像できてしまうのは何故なんだろう。
「……お恥ずかしい。些細な事なんですが、」
「うん」
「俺はいつもどうにも、あのひとに対して余裕というものが持てないままで」
 情けない限りです。
 風景に滲む様々な日常の音に混ざってざり、と煙草を灰皿に押し付ける音がした。返答を期待して零した言葉ではなくとも、何か言葉を続ける事も戸惑われてライドウは視線を泳がせる。どこかで誰かが布団をはたく音が聞こえる。この陽気ならマンションを外から見れば布団を干している家は多いだろう。
「いいんじゃないの、それだけ君は恋人が好きってことだろ」
 灰色の向こうから再度顔を出した鳴海は笑ってライドウを手招いた。素直に近寄った少年の頭を静かに撫ぜる。
「よしよし」
「……」
 こども扱いへの不服を視線に込めても鳴海は笑うばかりだ。こういうところは流石に想い人と同じ存在なのだな、と頭の片隅で思い直し、それでもこの手を邪険にすればそれこそこどもだとどうにか耐える。感触が心地良いのは違え様が無い事実でもある。
「俺が思ってるだけかもしれないけど、『鳴海』って人間は基本的に我侭だよ。残念ながらそこそこ狡賢い頭も持ってる。嫌なことがありゃどうにかしちゃうんだ」
 安心していいんじゃないかな。手を離し際にそう言って鳴海は喉を鳴らした。
「そういうかわいい顔して鳴海氏に直接いろいろ言ってみれば?ま、これだけは保障しといてやるよ。あの人、絶っっ対、大喜びするぜ」
 染まった頬を自覚してライドウが目を逸らせば、鳴海が今度こそ声に出して笑う。ははは、と響く音はどこまでも楽しそうだ。
「……あのひとと貴方はいつもそうやって可愛いと言う」
「本当にそう思ってるんだから仕方ないんじゃないかな。それにまあ、俺が一番かわいいのはうちの奴だし。拗ねるから本人には言わないでね」
 鳴海は眼鏡を外して胸ポケットに仕舞うと、ベランダの手すりに肘から上を付けて凭れた。ぼんやり見る先が何処なのかライドウにはわからない。雷堂ならわかるのだろうか。
鳴海と同じ体勢を取ってみると、手すりから先に出た分だけ相手の姿が見えた。
「じゃあさ、んー…浮気でもしてみる?そんなに想うばかりが苦しいんなら」
「は」
「俺とかどう。今なら同じ顔なんじゃないの」
 ライドウはまばたきひとつして笑う鳴海に視線をやった。確かに同じ顔だ。多少細かい造りに違いがあるとしても、誰の前に目の前の男を出したとしてライドウの想い人の名で呼ぶだろう。同じ名前なのだからある意味でそれも正解なのだが。

「嫌だ」

 ぽろっと零れたのは紛れも無い本音で、言ってからライドウは自分の言葉に内心狼狽えた。身体は微塵も動いていないと思う。
「あ、いえ、すみません。その、俺はあの人じゃないと」
「…………うっわあ、俺今ときめいたかも。ライドウ君ほんと男前だね」
 狼狽えた空白の時間は長くもなければ短くもなく、どうにか気力を振り絞って失礼な物言いを取り繕おうと沈黙を破れば、珍しく目を見開いて固まっていた鳴海がそのままの表情で言った。そして細められる目。
「ま、さっきのは冗談として」
「当たり前です。貴方の可愛いあれが泣きますよ」
「それはそれでちょっと見てみたい気もするけどな」
 くくく、と意地悪く喉を鳴らした鳴海の姿がライドウの視界から消え、からからと乾いた音がサッシを開けたのだと知らせてくれる。
「んじゃ適当な時に野菜取りに来てくれよ、俺は出かける予定ないからさ。そろそろかわいいコの為にご飯作らないと」
「では十六時頃に伺います」
「うん、待ってる。……なあライドウ君、かっこよかったからオジサンがひとつ教えてあげよう。鳴海氏にも雷堂にも秘密にしてくれよ」
 からら、音が響いて少しだけ鳴海の声が遠くなる。もう身体は室内に入っているのかもしれない。先の読めない言葉に首を傾げたライドウなど見えないはずなのに、はは、と一度笑ってから鳴海が言葉を続けた。
「君らにどう見えてるかオジサンにはわからないけど──余裕なんてさ。あるわけないんだよ」
 結局幾つになってもそんなの変わらないんだ。
 は。零れた空気は穏やかな笑みなのかそれとも自嘲なのか。ライドウには判断が付かないうちに三たび短く鳴ったからら、という音。トン、と響きを伝えてサッシが完全に閉じる。鳴海の気配はすぐに遠くなってわからなくなってしまった。
「……」
 脳裏に浮かんだのは狡さってのは大人の特権だよ、と余裕たっぷりに笑う想い人の姿だった。どういう流れで聞いた言葉なのかは忘れてしまったけれど歯噛みした感情だけは思い出せる。
 なら、隣家の鳴海は雷堂相手にそんなにも翻弄されているのだろうか。ライドウにわかるのは雷堂自身には決してそんな自覚が無い、ということぐらいだ。そしてライドウの想い人は。
 すこし強く吹いた風がライドウの短い髪を揺らし、もう一度ベランダからの風景を見る。視界のあちこちで何かが太陽を跳ね返してきらきら輝いていた。今日はいい天気だから洗濯物はすぐに乾くだろう。隣家へ赴く前に取り込めるはずだ。
 無性に想い人の顔が見たくなって、ライドウは洗濯籠を手に取ると数歩も無い距離を足早に詰めて室内へ身体を滑り込ませた。後ろ手にも拳一つ程の隙間を留めて窓を閉める。ライドウの起床と同時に出かけたゴウトはまだ戻って来ない。
 秘密を胸に抱いたまま、ライドウは感情が身体を動かすままに廊下を進んだ。
 寝ぼけ眼に頬をゆるめるのはきっとすぐ先のしあわせな未来だ。

「鳴海さん、そろそろ起きてくれませんか」

 だって早く貴方の笑った顔が見たいのだから。





 

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20090708

ライドウも雷堂も鳴海もナルミも、それぞれの前で微妙に口調が違うわけで。
同じだけど違う人間にだけ吐露できる感情ってのもある気がします。