小話
やさしいはなし/ライ鳴(♀) 2012年08月24日(Fri)
ついてない一日だった。
そもそも前日から取りかかっていた依頼が深夜の張り込み等で時間だけかかったものの、蓋を開けてみれば迷い込んできたジャックフロストの悪戯でしか無かったし、明け方前に帰宅し留守中の鳴海が散らかした探偵社をざっと片付けて仮眠を取れば珍しく寝坊した。朝食もとれず駆け足で師範学校へ向かえば級友には生きていたのかとからかわれ、放課後にはいつもより多くの女学生に呼び止められてさらにその内の一人には人目憚らず泣かれまでした。告白を断られて泣くのはわからないでもないが、慰めるだなんて器用なことも出来ずただただライドウの精神力は削られていくばかりだった。
漸く学生ではなく召喚師として働く時間を得たと思えば鳴海がヤタガラスに呼び出されたという書き置きを残して消え、仕方が無いと二人そろっていくはずだった調査に向かえば人間の悪意をまざまざと見せつけられて溜め息が溢れた。普段なら受け止められるものも疲弊した精神と身体には酷く負担になる。何故己がこんなことを、と考えそうになった時は黒猫のひと鳴きで思考を中断させたがとんでもない自己嫌悪に苛まれた。当代葛葉ライドウが何を考えようとしたのか。ふがいない限りだ。
さらに言えば運悪く手持ちの道具が尽きた状態で百鬼夜行に遭遇した。手子摺るとは言い難い相手でも百匹連なれば脅威になる。集中が途切れると途端に刃先が鈍り、破れた外套の裾が悪魔の血で染まる頃に漸く討伐は終わった。
「……あぁ」
酷い格好でも真夜中なら道端で人に会うことは無い。重たい足を引き摺って銀楼閣を目指せば天辺に月が輝いていた。吸い込まれそうな正円が夜にくっきりと浮かんでいる。
満月だったか。
日に何度か確認していたはずのことを今更ながら思い出し、忘れていた自分に反吐が出そうになった。目にしてしまえば潮に導かれたのか腹の底でふつふつと湧く良くないものを感じた。魔に近い人間はただのそれよりも月から受ける影響が大きい。とっくの昔に知っていたことだ。
傷口に感じていた拍動に合わせて良くないものが身体中へ響き渡る。錯覚だ、とライドウが首を振る頃には探偵社の扉がすぐそこの所まで来ていた。ゴウトを先に通すつもりで扉を開けながら足下を窺えば黒猫の姿は見えず、帰路の途中で名も無き神社へ行くと言って別れたことを思い出す。ほんとうに今日は情けない。自らに苛立ちながら探偵社へ身体を滑り込ませたライドウを迎えたのはやわらかなランプの光だった。
「おかえり」
ガラス越しに卓上の光を認めてはいたがどうせ鳴海が消し忘れたまま寝たのだろうと思っていた。上司の気配の無さに驚くよりもただ単純に起きていたことが不思議で内心首を傾げるが、女の目がずっとライドウを見据えているので漸く思い至って口を開く。
「ただいま戻りました」
「うん」
挨拶をすれば鳴海がへらりと笑い、煙草を灰皿に押し付けて近づいてきた。所長机には何枚か紙が散らばっているから珍しく事務仕事でもしていたのだろうか。頭の隅はどこか冷えた感覚でそんなことを考えているのに、身体の中で拍動を続ける良くないものが溢れそうになって思わず息を飲む。今のまま他人に近づいてもろくなことにならない気がしてライドウは外套を外すそぶりで上司を避けようとした。
「酷ぇ顔」
嘘みたいな当然さで細い指の背がライドウの頬を撫ぜた。
避けようとしたはずなのにどうしてこうなったのかわからない。やわらかな仕草で身体の重さが何倍にもなったように感じられて、ぐらりとライドウは鳴海へもたれかかった。
「す、みませ、」
「良いよ良いよ、でも座ろうな」
長身がもたれたら鳴海の小さい体躯では大変だろうと思うのになかなか力が入らない。ライドウを受け止めたまま鳴海は側のソファへ座ると学帽を奪って放り投げた。カタン、床にあたった硬質な音が薄暗い探偵社に響く。
幾度か背中を叩かれライドウはゆるく息を吐いた。ぼろぼろで帰ってきた部下を労ってくれるのはありがたいが、今許されるなら叫んでしまいそうだ。鬱屈した精神が満月で変な方向に手を広げている。デビルサマナーとして情けない、男なのに女性へ縋っているなんて、級友に悪気は無いとわかっていても生きていたのかは酷い俺はいつ死んでもおかしくない、泣かれるなんて理不尽だ、力の足りない己が嫌だ、こんな俺にやさしくされても、やさしく、されても。
涙こそ出なかったけれど眼裏は熱く染まっていて、鳴海の肩に頭を預けているから情けない顔を見られていないことが唯一の救いだった。どろどろした感情のままでは鳴海に酷いことを言ってしまいそうだから早く離れなければと思うのに、身体は他人の体温に甘えきっている。ひとつ背中を叩かれる度にほんの僅かずつ鬱屈が薄れていくのもわかってしまって、ライドウはひっそり息を吐いた。
短いのか長いのかわからない時間が過ぎ、まだ自己嫌悪と良くないものに浸っていても自室まで押さえて戻れると思えた頃、ふっと知覚出来たのは鳴海の香りだった。これだけ密着しているのだから感じるのは当然だ。苦手なはずの他人のそれへ何故だか飢えを感じ、ライドウは鼻先を癖毛に押し込んで上司の身体をぐっと抱いた。ん、と漏れた女の声で我に返って勢い良く身体を離す。
「すみませ、」
「んー……」
何でこんな時に、と困惑しながらもライドウは下半身の熱を認めていた。最近処理をしていなかったのを思い出し、続けてこの状況は深夜の部屋に男女が二人きりだということも思い出す。鳴海が女性だというのは知っていたことだが、この時初めて本当にわかった気がした。どくん、拍動でまた全身に良くないものが染み渡る。情けない、こんな己が嫌だ、なのに。
じっとライドウの目を見つめていた鳴海が眉を下げて笑い、ゆるく手を広げる。
「ライドウ」
「……俺、もう、部屋に」
「――おいで」
耳に入った言葉を脳が理解する前に身体が動いている。
他人に縋る。体温に縋る。肌の感触がただもっと欲しい。
腹の奥でどろどろと煮える良くないものへ情動で火を付け、いずれ焼き尽くしてしまえ。
ライドウは女の肉へ歯を立ててゆるされるよろこびに浸った。