小話
少しだけ昔の夜/ハカズ雷ナル♀ 2013年11月23日(Sat)
「起きたか」
畳の上に乱れた掛布を絡ませた女が寝そべっている。紫煙を燻らせながらその姿を眺めていた男は灰皿へ煙草を投げ捨てると長い癖毛に指を伸ばして口の端を持ち上げた。
「……」
「明けたら出る」
「そう」
男の言葉に女は身体を起こすと側の盆を手繰り寄せた。腕をのばす動作で掛布がするりと白い肌を滑り落ちる。
「なんだ、驚かんのか」
「あんたの準備が終わってることぐらいは知ってたよ。なんか待ってたのが漸く頃合いになったってとこかな」
「は」
男は酷く楽し気に笑うと煙草をくわえる女に火を点けてやった。薄暗闇に橙色がぽつり、浮かんで見える。
「流石、正解だ。我の行く場所は見つけたし次代も育ったと思える。心残りも無い……いや、ひとつあったな」
ゆるゆると紫煙を吐き出していた口元に骨張った指が伸び、自然な動作で煙草を奪う。そのままくわえてひとつ吸い込んでから男は言葉を続けた。
「これで貸しも無くなった」
「了解。もともとそんだけの安い取引だったよ」
「違いない。我は随分な交換をしたものだ。……あぁ、笑ったな」
煙草をくわえたまま、男の腕が女をぐっと抱き寄せる。抵抗しない女は身体の重みを男に預けることはしなかったが、それでも背に回った手のひらがやわらかくそこを叩けばゆっくり目を閉じた。
「世話になった」
「お互い様だよ」
くつくつと喉を鳴らす音。笑いの気配が二人分混ざり合い、波が引く様に消えてから男の手にほんの少し力がこもった。
「どうか息災で。鳴海は我の」
いや、否定の呟きがはらりと部屋に落ちる。鳴海へ触れる前に空気へ溶けたそれはやわらかい色をしていた。
「――俺の、最高の相棒だった」
夜の湿度はどこまでも穏やかに室内を満たしている。言われた言葉の残響までも闇に流してから、鳴海は男の胸を押して僅かな距離を取った。
「それはどうも」
「今生の別れにしちゃ味気無いな」
「この浮気者が、何言ってんだか。……今生になるかい?」
「あれには何十年と待たされたのだからこれぐらいは赦してもらうとしよう。まあ、次にもし我が鳴海と会うなら魂魄か黒い生き物だ」
男の手がくしゃりと癖毛を掻き混ぜる。離れていく指先を眺める鳴海が僅かに目を細め、ゆるく息を吐いた。
「死んでも魂が縛られるとは聞いてたけどね」
「それが葛葉の名を継ぐ者の理だ。我に後悔は無い」
「相変わらずご立派だね。まぁあんたはそう言うと思ったけど」
それに、と呟いてから女は口の端を持ち上げる。
「ほんとにご立派ならこんなことしないとも思うけど、私はあんたが何よりまっとうだと思うよ」
魂だけになろうが黒い何かに縛られようが。
「……その言葉だけ、ありがたく頂戴するとしようか」
僅かに眉を下げひっそり笑った男の目尻に生まれた皺を、今でも鳴海は覚えている。