こいのはなし




 ざくざくと白菜が刻まれる音は耳に心地良い。銀楼閣鳴海探偵社の台所で鳴海は火を付けない煙草を咥えてひたすら包丁を動かしていた。換気も兼ねて開け放していた窓からの風は日が落ちてしまえば肌寒く、いつの間にやら秋が来ちゃったなあ、などと思う。
 刻んだものを鍋に放り込めば後は煮込むだけだ。焜炉の火に煙草を頭を突っ込み、素早く口に戻して吸えばどうにか灯って鳴海の肺には煙が送られる。
 晩飯の仕度が一段落して一服する。
 その頃には書生が帰ってくる。毎日のやりとりだ。
 銀楼閣三階の廊下を進む高らかな足音を耳にして、鳴海は用意していたサイフォンで珈琲作りに取りかかった。
 そして扉の開く音。
「ただいま戻りました」
「にゃあ」
「おー、お帰り」
 台所から顔だけ出せば雷堂は律儀に礼を返し、外套を腕にしたまま側へ歩み寄って来る。
「……」
 傷が入っていてもとんでもなくきれいな顔の持ち主だ。じっと見つめられれば最初はなんとも居心地が悪かったものだがいい加減慣れた。大人なのだから少年の視線を幾らでも察して「どうしたんだ」と促してやれるはずなのに、鳴海にそれができないのはこの後の事態が予想出来てしまっているからだ。煙草をシンクの水滴で湿らせてゴミ箱へ放り込み、カップが二つと平皿が一つ乗った盆を持てば進行方向に立つ雷堂を視界に入れないわけにはいかなくなる。
「鳴海」
「ん」
 運ぶから寄越せということなのだろう、両手を差し出す書生を声一つで制しておいても雷堂の言葉がいつもと変わることは無かった。気分を害した様子も無く手を引っ込めて、ただ鳴海を見てひとこと。

「我はやはり鳴海が好きだ」

「そっかありがとな。今日はあげと白菜の炊いたやつだからすぐ食えるぞ。ま、とりあえず一旦は休憩だからとっとと手ェ洗ってきな」
「ああ」
 素直な返事ひとつ残して水場へ向かう雷堂の背を見送り、溜息一つ。
 此処までがほんとうに慣れたやり取りになってしまった。
 なんてことだ。



『もうどれぐらいになる?』
「.……業斗ならちゃあんと覚えてるくせに、意地が悪い」
 かろん、と洋酒のグラスを傾ければ耳に涼しげな音がする。自分のそれを満たすついでに業斗の前へ置かれた小皿へも注いでやって、それから鳴海は大げさなため息を吐いた。夜も更けたこの時間はこうして目付けとささやかな酒宴を楽しむことが多い。
「随分経つけど」
 そう、随分前だ。随分前に雷堂は突然鳴海に告げた。何でもないことの様に、ごくごく普通の顔をして。
「からかった俺が悪かった、かな……」

 なんてことのないきっかけだったと思う。いつものように二人と一匹で探偵社の客用机を囲み、雷堂へは甘い菓子を提供してのんびり珈琲とくだらない話を楽しんでいた時に何故だか恋愛の話になった。雷堂が持ち帰った恋文を見たからだったような気もするが、恋文ももはや日常茶飯事だから確かではない。
 ともかく恋愛の話になり、軽い気持ちで鳴海は雷堂に言った。恋の一つや二つ経験しろ、悪いことにはならないから。お前照れちゃって告白とか出来そうにないけど。
 もともと色恋沙汰が得意でないのは一緒に暮らすうちに嫌でも知れた。任務があるので誰とも付き合う気がないというお固い台詞まで本人に頂いてしまっているけれど、それでも、更に言えばヤタガラスや葛葉の里が何を言おうとも、恋をしろというのは鳴海の心からの願いに違いないのだ。
「それぐらいできる」
 いつもの様に押し黙ってしまうかくだらない事を言うなとばっさり切り捨てられるか。どちらかだと予想していた鳴海に雷堂が返したのはきっぱりした一言で、思わず瞑目して目の前の書生を見つめてしまった。
「……雷堂?」
「我は照れたりなどしない。告白というのは己の想いを伝えるということだろう。そんな時に揺らいだりしない」
 そこまで言われてああ、と思った。なるほど、恋云々よりも告白出来ないだろうという言葉に矜持を刺激されたらしい。
「そりゃいいや。やっぱお前かっこいいな」
 微笑ましくなって学帽の上から頭を撫でれば顔を顰めたものの避ける様子はない。余計に可愛く思えてさらに力を込め、何の気無しに鳴海は言葉を続けた。
「かっこいいから好きな子できたらそんな風に言いな。きっと上手くいく」
 無責任極まりない言葉でも雷堂なら高い確率でそうなるだろうと思ったのは確かだ。恋を叶える喜びでも、可哀想だが己の意思ではどうにもならないことがあるという挫折でも良い。どんな結果になってもそれはこの子どもにとって良い体験になるに違いないのだから。
「好きな子」
「うん」
 ゆっくり珈琲で喉を潤し、鳴海の言葉を鸚鵡返しに呟いた雷堂へ笑いかける。俺にもこんな父性愛だなんてものがあったんだなあ。変な感慨まで覚えてうっかり目頭が熱くなっている鳴海を気にもせず、突然向かいの席から立ち上がった雷堂は迷い無い足取りで鳴海の側まで進み、はっきりと言った。
「我は鳴海が好きだ」
 独特の一人称を除けばお手本みたいな簡潔な文章が、その時の鳴海の頭にはなかなか入ってこなかった。出来がいい筈の頭がちっとも回らないことに恐怖して手の甲で眼鏡のずれを直し、もう一口珈琲を飲む。視界の端では業斗が香箱を組んだ姿勢で耳だけこちらに向けているが、尻尾の付け根あたりはまだ毛が逆立っている。どうやら当代雷堂の発言は目付けにも結構な衝撃を与えたらしい。
「雷堂」
「何だ」
「何それ初耳なんだけど」
「当たり前だ、我も初めて言ったからな。好きな人間に好きだと言うのが「告白」だろう? そんなことは初めてした」
 わかりきったことを何故聞いてくるのかわからない。顔にそんなことを書いた表情で首を傾げる雷堂を見て、思わず鳴海は頭を抱えた。好きだと言ってくれるのは単純にうれしいけれど、これは違うだろう。
「それはそうなんだけどさ、なんか違うぞ雷堂」
「我が一番に好きなのは鳴海なのだがそれでも違うのか」
「うーん、そう言ってくれるのはうれしいんだけどさ。そういうのは恋文くれるような女の子に思うことだろ。好きというか、笑って欲しいというか、側に居たいというか、とにかくそういうのって」
 言えば雷堂は腕を組んで考え込むそぶりを見せ、それから鳴海に視線を戻した。
「……我には「そういうの」の相手はやはり鳴海なのだが」
「俺はなんかずれてる気がする」
「そうか」
 かわいがり過ぎたかな、と思った。隠れ里の生活で人慣れしていないというのは探偵社に来てから今まで嫌という程思い知ったけれど、こんなことを言い出すだなんて誰が予想出来ただろう。
 好意自体は自惚れながら間違いないとして、それが欲をともなうものだとは思えない。
「なら確かめさせてくれ」
「へぇっ!?」
 とんでもない言葉が聞こえて口から変な声が出る。言葉の内容か鳴海の奇声にか、今度こそ業斗の尻尾が付け根から全部逆立ったのを視界の端に認めた。
「お前、それはどういう」
「鳴海にいくら違うと言われても我が好きなのは鳴海だと思う。だから確認の意味も込めて鳴海に告白することは許してくれ。我が納得するまで」
 どういう理屈だそれは。
 聞いてもわからないんだろうなあ、と思ってどこか諦めたその次の日から、本当に毎日書生は上司へ告白している。ただ好きだ、とだけ繰り返して。

『からかうのはいつものことだろう。今更気に病んでも手遅れだ』
「それはそうなんだけど」
 生きていれば出会いなんて何処に転がっているかわからないから、そのうち少年は誰か良い人を見つけるかな、なんて甘いことを考えていたのも事実だ。まさかここまで真っ直ぐ鳴海だけ追ってくるとは思わなかった。
「あんなに俺だけ見てたら出会いを潰してる気がしちゃって」
『なら責任取って応えてやれ』
 酒を舐めながらしれっと言われた内容に思わず噎せる。黒猫は濡れた口元を桃色の舌でひと拭いして満足げな顔を見せた。
「目付役が随分なことを」
『俺は任務に支障さえなければ小僧を咎めはせんよ。努力家な後輩が可愛いのは確かだしな』
「……それに、雷堂も応えはいらないみたいだし」
 鳴海がどうしても雷堂の想いを恋情だと思えない根拠はそこにある。幼くてもそれが恋であるなら、想いに対する何らかの反応を相手に求めるものじゃないだろうか。いちばん本質的な欲を覚えるのが恋情に違いない。
 だからどれだけ毎日想いを伝えられても、鳴海の答えを求めること無くただ繰り返す雷堂の気持ちは譲歩出来る限り高く見積もっても行き過ぎた家族愛、でしかなかった。
『ほう』
 机に落ちた鳴海の声を掬い上げ、業斗が耳を揺らす。間違いなく最年長の魂はいつも少し離れたところで若造を見守り時にはからかっているが、業斗から見れば雷堂も鳴海も変わらない若輩者なのだと思う。
『酷い顔だ』
 ぱたりと黒猫の尾が鳴海の腕を打つ。
 やわらかな感触を享受しながら、いい加減どうにかしないとな、と鳴海は瞼を下ろした。これ以上続けたっていいことなんかないはずだ。雷堂にはしあわせになって欲しいし、こんな告白ごっこを続けていても。
 ぼんやり考え込むうちにいつの間にか意識は睡魔に乗っ取られ、明日どうにかしよう、それだけ決めて鳴海は眠りの海に沈むことを選んだ。



 翌日の夕方もいつも通りだった。魚を煮ているうちに雷堂が帰宅する。台所から漂う香りと鳴海を見つけて言うのだ。
「鳴海が好きだ」
 いい加減にしろ。
 半ば投げやりな気持ちで鳴海は眼鏡を取って邪魔な学帽の鍔を少しだけ持ち上げ、そのまま唇を重ねた。押しあてるだけのそれに雷堂がびくりとふるえたのが良い気味だ。すぐに離れて思い切り鍔を引き下げてやれば途端に雷堂の目元は見えなくなってしまう。
「ほーら、そんな簡単に好き好き言ってたらオジサンにこういうことされても文句言えなくなっちまうからやめときなさい」
 言って再び眼鏡をかけ、わざとらしく溜息を吐いてやる。
 かわいい預かり子の日常を考えれば接吻は初めてだと思う。どうせならかわいい女学生とそういうことをして頂きたかったがまぁ鳴海のこれはお灸がわりだ。いつか大人になった時、馬鹿をした思い出として振り返ってくれたら良い。
 心のどこかに生まれた「さみしい」という感情には目を瞑ってそんなことを考える。
「な、雷堂」
「……」
 促しても雷堂からの返事は無い。そんなに嫌だったなら悪いことをしたかも、と一瞬前の思考を自ら裏切りながらひょいと覗き込んで見れば。
「え」
「見るな」
「いやいやいや」
「見るな、情けない」

 雷堂の顔は見事なぐらい真っ赤に染まっていた。

「え、何それ凄い真っ赤っか」
 片手でどうにか鳴海を押しのけようとしてくる力も雷堂にしては弱々しいものだ。空いた手のひらで顔を隠していても、いくら大きな手のひらとはいえ成長期の少年のものだからあちこち見えてしまっている。顔だけではなく耳や首筋も染まっていれば湯気が出てもおかしくはない在り様だ。
「雷堂」
「見るなと言っている!」
 赤い顔での怒号は弱々しいものでしかない。どうしていいかわからず鳴海もただ突っ立っていれば、やがて少しは落ち着いたのか少年はぽつりと零した。
「当たり前だ」
「ん?」
「赤くなって当たり前だと言ったのだ」
 惚れた相手に接吻されてそうならないわけがあるか。
 逸らし続けた視線を鳴海に戻し、赤い顔でもまっすぐ見据えながら雷堂が言う。瞳に宿る真摯さへ一瞬見蕩れ、鳴海はあわてて頭を振って呪縛から逃れた。
「言っただろう、一番好きだと」
 笑って欲しいのも、側に居て欲しいのも、触れたいのも、全部鳴海だ。
 宝物を語るような大切さを滲ませて雷堂の声が響く。元々年齢の割に深い声音だ。側で聞いてきた鳴海はきっと、誰よりも知っている。ぐらぐらと揺れる頭にどうにかその音を染み込ませ、やっとの思いで鳴海は口を開いた。
「なァ」
「何だ」
「お前何で俺が好きなの」
 思えば一番最初の時に聞いて置くべき質問だった。驚く程の狭量さで雷堂の情を家族愛だと思い込み、欠片も信じなかったのは、家族としては愛されているという一点に於いて絶対的な自信があったからだろうか。
「……我に父親の記憶は無い。鳴海があんまり構うから最初は父親とはこういうものなのかと思ったが」
 いやこんなだらしない父親は認めないがな。
 しっかりとそこだけは否定して、雷堂が言葉を紡ぐ。まあそれは普段の生活態度を叱り飛ばしてくる書生なら当然の反応だろう。それはともかく。
「父親なら触れたいとは思わないだろう。……何より、鳴海が他の誰かに触れるのが嫌だと思った」
 からかいながら抱きつくだなんて幾らでもした。他人の体温に慣れず固まっていたこどもが素直に受け入れてくれる様になったのは何時だっただろう。呆れて慣れただけかとも思っていたが。
「それだけだ」
 例えそれが子ども地味た独占欲を歪めたものだとしても。

 なんだ、それじゃ最初っから
 雷堂の恋は。

「鳴海? 顔が赤い」
「ちょっと待ってくれ」
 ついさっきまで真っ赤だった書生に言われたい言葉ではない。思わず口元を手で覆い隠し、そろそろと雷堂を眺める。
「もう一つだけ聞かせてくれ。お前何で俺の気持ちは聞かないんだ?」
「……、それは、」
 此処までの流暢さが嘘のように雷堂は口籠り、それでも鳴海の視線から逃げなかった。ぐ、と手が身体の横で強く握られている。
「鳴海が言っただろう」
「俺?」
「堂々とした告白は格好良いと。そんな風に言えば、きっと上手くいく。そう言ったのは鳴海だ。自惚れでも我が嫌われていないのはわかる。なら、我に出来ることは」
 言い続けるだけだ。そうしたら上手くいくと鳴海が言ったのだから。
 雷堂の拳が僅かにふるえているのを見つけて思わず鳴海はちいさく笑った。なんてことはない、雷堂も立派な恋する少年じゃないか。恋情にぐるぐると翻弄され、相手と相手の応えが欲しいのと同じだけそれに恐怖し、くだらないと自覚しながらも言葉遊びや些細なこだわりに縋ってただ成就を願う。
 そんなのは立派な恋以外の何ものでもないのだから。
「なるほど」
 癖毛を掻きながら一歩近付けば、力の入っている雷堂の身体がびくりと揺れた。怖がらせるつもりは無かったが確かに緊張して仕方ない事態だろう。一度気持ちを変えて見てみると雷堂の虚勢は非常にわかりやすいものでしかない。
「馬鹿だなあ」
「っ」
「いや、お前じゃなくて俺が」
 息を飲んだ少年に眉を下げて笑って見せる。馬鹿なのは鳴海でしかない。かわいい預かり子の想いを自ら誤解したり、撥ね除けようとしたり、自覚してはいなかったが雷堂の想いが恋情ではないことへ拗ねてみたり。そんな全部の裏返しは、癪だからまだ認めはしないが鳴海の雷堂へむける正直な気持ちなんだろう。
 心の隙間を読んで動くことに長けた幽霊はいったい何処へ行ってしまったのか。随分と落ちぶれてしまったと思う。それもしょうがないのかもしれない。
 惑わない恋愛などないのだから。
「何と言うか、話したいことがたくさんあるんだけどとりあえず」
 もっかいしていい?
 惚れられた強みを持つ大人のずるさを今だけは存分に発揮させて頂こう。わかりやすく狼狽えてあちこちに視線をうろつかせる雷堂が、やがて頷いて目を閉じるのはすぐそこの未来だ。
 その先で笑顔にしてやるから今は勘弁な、心の中でひとつ呟いて、鳴海は学帽の鍔をそっと引き上げた。


おしまい

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20121104up/初出20121030コピ本

副題は「雷堂さんと所長さんのぼんやりした地味な話」でした。
ライドウオンリで三冊出したくて前日夜から書いたにしては好きな話。
ナル雷も好きです。