「鳴海さ、ん」
「ん」
 急ぎの調査も学校も無い良く晴れた休日。ここぞとばかりに布団までしっかり干した雷堂が情人の部屋を訪ねると、鳴海が見たことも無い格好で姿見の前に立って入り口を振り向いた。
「どうした」
「……いや、珈琲を淹れるから飲まないかと……鳴海さんこそどうした」
「なんだよ酷い言い草だな。似合わない?」
 眉を下げて笑った鳴海がゆるりと袖を持ち上げて見せる。常なら三つ揃いに包まれている身体は珍しく和服を纏っていた。薄墨色の生地には何輪かだけ藍墨の大きな花が開き、その上に滅紫で細い細い枝葉が描かれている。所々に散る薄浅葱と白の小花が他の暗い色のからは浮き上がる様に見え、静かな色彩へ華やかさをそっと沿えていた。
「似合う、と、思う」
「そっか。ありがと」
 言葉が途切れがちになったのは単純に美しいと思って動悸がしたからだ。不自然な雷堂の言動を咎めるでもなく、鳴海はそれなりうれしそうに礼を言って見る間に髪を纏め上げた。夏祭りの浴衣姿を見た時にも思ったが、長くはない癖毛がどうなって後ろ頭へ留められるのか見ていたはずの雷堂にはさっぱりわからない。項へ落ちた短い毛を撫で付け、雷堂を招く白い指先に心地だけはふらふらと近付けば何かを手渡された。
「ほい」
「……なんだこれは」
「着けて」
 傷が多い無骨な手に鎮座させるのが申し訳なくなる程華奢な髪飾り。丁寧な細工が施されたそれは雷堂の手の中でちいさく揺れた。
「どうすればいいかわからん」
 正直に告げてみれば適当で良いんだよ、と鳴海が笑った。結局鳴海の指先に先導されておそるおそる差し込めばどうにか良い場所に留まったらしい。合わせ鏡で具合を見た鳴海がもう一度笑う。
「ありがとな。ついでにお願いしたいんだけどちょっと付いて来てくれる? んで帰ったら珈琲頼みたいんだけど、いいかな」
 否と言う理由などどこにも見つからない。
 連れ立って筑土町の町並みを歩き、見知った顔に和装をからかわれながら電車まで使って出かけた先はただひたすらに静かな場所だった。
「こっちだ」
 降りた駅で花売りの子供から買った一束を片手に、和装は久々だと零していたとは思えない程慣れた足取りで鳴海が道を進む。野の花が無造作に束ねられたそれはゆるゆると吹く風に身を揺らし、やがて辿り着いた場所へ捧げられた。
「ーーーー」
 石に刻まれた名を一瞥して雷堂は空を仰いだ。銀楼閣の屋上から見上げるのと変わらないはずなのに、青が遠く離れている様に思えてしまうのはどうしてだろう。天気が良いから他にも訪れる者が居たらしく、整然と並ぶ石のあちこちから細い煙が昇っていた。
 何も言う気が起こらないし何を言っていいのかもわからない。
 居たたまれない、とまでは思わなくてもどうしていいか判断出来ずに雷堂は学帽の鍔を引き下げた。隣では鳴海が膝を折って線香に火を灯している。
「あ、ちょっと持っててくれ」
 差し出された眼鏡を受け取れば、鳴海は瞑目して手を合わせていた。しばらくじっとそうしているのは此処へ眠る人間へ語りかけているのだろう。普段は眼鏡の向こう側にある伏せた睫毛の長さを何とはなしに眺め続ける。
 鳴海が何を話しているか気にならない訳ではない。
 知りたいと思ったし、同じだけ知りたくないと思った。知るのはおそろしいとも思った。ただ。
 この場に、鳴海と共に居るのが己であること。
 その事実は胸へ響いた。
「……そうだ。お返ししますね」
 言って鳴海は懐から手巾を取り出すと花の横で火を付けた。汚れのが見える白い手巾はあっという間に燃え尽き、僅かな灰は風に攫われてしまう。
 じっとその様を眺めていた鳴海は雷堂へ視線を遣ってから前へ向き直った。再び手を合わせ、目を閉じ、ゆっくり瞼を持ち上げて、そして微笑む。
「ではまた」
 立ち上げる鳴海に手を貸してやればそろそろ行こうかと促された。繋いだ手をほどく事がなんとなく惜しくなり、常ならば照れが混ざって雷堂から離す事が多いのにそのまま歩こうとすれば鳴海が僅かに瞠目する。はは、と小さく笑い声がして鳴海が自然な動作で手をほどいた。顔を見れば困った様に笑っているから何も言えない。
 来たのとは逆の道を、今度は雷堂が先に歩く。吹く風に混ざって薄青がひらりと揺れ、雷堂と鳴海の周りを踊ってから背後へ流れていった。青みを帯びた蝶はそれはこういった場所で珍しいものではなく、只人とは違う目を持つ雷堂には人の形を映す。かなりちいさいものではあるが。
「――チョウケシン」
 何故だか声に出しながら姿を追って振り向けば、鳴海も薄青い姿を目に留めたのか振り返っていた。その視線の先に、視界にある物は決まり切っている。
 髪飾りをつけた後ろ姿が、いつかのほころびを見せた女と重なる。其の背に途方も無い距離を感じて雷堂は衝動に突き動かされるまま名を呼んだ。以前は泣いてしまえと思った。今は。


「鳴海」


 呼んだのは何より愛しい名。
 同じ音が想い人の口から零れ、己の声と重なって聞こえたのは気のせいだろうか。

 雷堂に向き直った鳴海がなんだよと笑う。その向こうでは薄青が花束に辿り着いてひらりと揺れ、溶ける様に姿を消した。何も言わずに鳴海の手を取り、強引とは言えないぐらいの力で傍に寄せて帰途を辿る。鳴海も大人しく歩いている。
「なんだよ、珍しい」
「うるさい」
 からかいの混じった声に顔が赤くなるのを自覚し、喉を鳴らす音が聞こえて雷堂は空いた手で学帽の鍔を引いた。掴んでいただけのやわらかな手が、今は雷堂の手を握り返している。それだけでもうしあわせなのは間違いない。

 二人で歩く。
 帰ってお前の珈琲が飲みたいな、と暢気な声で鳴海が呟く。


 ありがとう。微かな声が風で四散したような気がした。
 
 
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誰かの声。