生まれてすぐに両親は流行病で仲良く逝っちまったらしいです。
 片親の兄妹だという夫婦に引き取られて育ちました。
 あの人達も病気でぱたぱたっと天国にいきました。
 後から聞けば兄妹じゃなく親友だったそうです。
 血のつながり何ざないあたしをかわいがってくれた気のいい人たちだった。
 いい人たちだったけど縁者なんかは居なかったみたいですよ。
 なーんも出来ない餓鬼は一人になっちまいまして。
 そこそこ薄暗いことなんかしてる内に拾われて流れてまあ見ての通りです。
 いやいや、死のうと考えた事ももちろんありますよ。
 でもねぇ。
 いつでも死ねた命を引き延ばしてくれたあのひとたちに申し訳なくって。

 短い話が終わると同時に茶を作り終える。茶菓子は必要ないと言われてしまった。
「……ほんとにこんな話でよかったんですか」
「頼んだのは私じゃないか」
「そりゃ。そう、なんですけど」
 大雑把な生い立ち語りが男の要望だったとはいえ、お気に召したかどうか表情からはわからない。丸眼鏡が光を反射するから目元の変化がわかりにくいのも一因だろう。会議やら何やらで疲れたように見えたので作った茶を出せば短い礼が返されて、正直戸惑った。自分のような立場に礼を言うような人間が居るとは思わなかったのだ。少なくとも男のような職についている者が。
「君は賢いな」
「は」
 思わず間抜けな声をあげたこちらを見て男が喉を鳴らした。本当に変な男だ。
 名を宗像という。
 他の客人と同じく軍人だ。
 そもそも出会ったときから変わった男だった。お偉い方が下賤の民には想像もつかないような話をするらしいこの洋館で、自分は主の命を受けて宗像付きの世話係になった。多少見目が良いからこの若手──とは言い難いが力を付けて来ている将校への貢ぎ物として抜擢されたのだと思う。そもそも主が自分を拾ったのも見目が気に入ったからだろうし、主がより権力を強固なものにするための供物としてある程度の教育も受けた。それなりに何人か「もてなし」たこともある。こちらとしては衣食住に学まで付けてくれるなら有り難い限りだ。まあ多少の変態趣味は歓迎出来なかったが。あの禿め。
 まだ自分の力だけで此処を出るには無力過ぎる。

『お世話をさせて頂きますーーと申します。どうぞ御心のままにお使い下さい』
 ドアが開く前から折っていた半身を起こせば、きっちり背筋を伸ばして立っていた軍人は開口一番こう言って退けた。
『悪いが私は妻一筋な朴念仁でね、期待には答えられんよ。ああ、お茶を貰えるかな』

 正直あの時は心中で絶句した。そんなわけで宗像には未だ抱かれていない。

「お疲れですね」
 なんとなく零した言葉に宗像が瞠目した。自分はそんなに珍しいことを言っただろうか。視界の端に小さな黒煙で出来た蛇もどきが蠢き、宗像の足の間を通り抜けて行く。また魑魅魍魎の類いか。幼い頃からちらちらと視界を横切る奴らと意思を交わした事はないが、奴らが何の気配を探り当てて姿を現すのかは自然とわかるようになった。今回はただの気まぐれのようだが。蛇もどきををぼんやり目で追っていると宗像が口を開いた。
「何故そう思ったんだい」
「え、それは」
 なんとなく。口から出そうとした返答は宗像の視線で喉まで押し戻された。こういう目を見ると、普段この部屋では穏やかに茶を啜るだけの親父が、間違いなく他人より上に居る人物なのだと実感させられる。だからまばたきひとつの間に頭の中で答えを並べ、ゆっくりと選び抜く。外されない視線がどうしてだか痛い。晒した肌を睨め付けるものよりも余程落ち着かない。
「──二つ。貴方が眼鏡に汚れを残されているのはこれまでに見たことがありませんし、 今日はここに戻られる前に手を洗われていないようなので」
 いつも通りを保てない程度には疲れているのかと思ったのだが。声に出さず呟けば、ほう、と宗像が呟いた。痛い視線は相変わらずだ。
「眼鏡はともかく、何故君が私の習慣を知っているのかね」
「気を悪くされたなら申し訳ありません。……袖をいつも濡らしてらした」
 宗像が手を洗う理由までは知らないが、いつもきっちりしている軍人がほんの僅かに袖の端を湿らせているのに少しおかしくなったのを覚えている。あぁなんだかんだとこいつは男なんだなと思ったのだ。些細なことに目が向いたのはなんとなくだ。部屋に戻って数分で空気に還ってしまうだろう水分、数滴ほどに気づいて何になると言うのか。
 そうか。宗像は一言零すと出した茶を両手で持って啜った。そうしている姿は縁側で茶を啜る爺のようでもあり、馬鹿馬鹿しい事に少しかわいいだなんて思ってしまう。
「いやそうか、わかった。確かに疲れたな、此処はどうにも疲れるし私の性には合わないらしい。来る前からわかっていたことだがね」
 ああ君も座りなさい、言われて手近なグラスへ茶の残りを注ぎ宗像の向かいに座る。何度も繰り返されているやり取りだ。言われる前に茶を用意した事に満足したのか宗像が目を細めた。歳の割には笑い皺が多い。
「君とこうしている時ぐらいだ、息が抜けるのは」
「はあ、ありがとうございます」
 変な茶会を催した数は片手の指を越えるが、宗像がこんなことを言ったのは初めてだった。そんな風に気に入ってくれるのは有り難いがどうせなら抱いて溺れてくれた方がこちらとしては、正確に言えば主としては歓迎出来る。自分としてはどちらでもいい。体力を使わないで良い分楽なのは確かだが。
「それに……、疲れたと見抜かれたのは、妻を除けば君が初めてだな」
 これでも軍人なのでね。
 きっちりと背筋を伸ばしたまま茶を啜るどこからどう見ても軍人にしか見えず、しかし自分が知る「軍人」とは色んな意味で一線を引く男がそんなことを言う。
 はあ、と間抜けな答えを返す事しか出来なかった。


 いつも宗像とは短い時間他愛無い会話をするだけだったが、次の日からはよくわからない質問が増えた。気づかれないようにという配慮なのか、会話に自然を装って混ざる質問の意図がわからない。主の先週の服全て、新聞の何処に何が書いてあったか、客人達の癖に満たない仕草。覚えてはいるが必要のない情報だろうに。暗闇の中、車まで書類を取りに行ったこともある。いくつか頭を使う話までされたので其れに対する意見は正直に答えさせて頂いた。主から受けた命令は「もてなせ」、出来れば虜にしろ、だけだったのでそれぐらいかまわないだろう。
 五日程の滞在最終日、宗像は「惜しいな」と言ってこちらの全身を眺めた。頭のてっぺんから爪先までを往復し顔に戻る視線は相変わらず欲を含んでいない。
「──なるほど、君は有能なようだ」
 男にも成れるな。
 女に対してとんでもなく失礼な言葉を吐いた口を思わずぽかんと眺めてしまった。いや違うな、男であれば欲しかった、か。続く言葉になんだこいつは男色だから手を出して来なかったのかそうだ他の奴が自慢げに教えてくれたがこいつも陸軍だものなしかし細君を語るときはしあわせそうだったが、と頭の中を駆け巡ったが、冷静に考えれば誤解し過ぎていると気づく。
「君のような人材は軍で重宝しただろう」
 ぽん、と宗像はこちらの癖毛に手のひらを弾ませてゆるく笑った。外の血でも混ざっているのか背の高い自分とほとんど目線が変わらないくせに、目は飼い犬でも見るかのようにやさしい。離れて行く腕の袖が相変わらず僅かに濡れているなと頭の片隅で思った。
 形式ばった挨拶を残して宗像は洋館を後にした。自分には、ものすごく正直に言えば宗像から「有能」と認められたという点に於いてはうれしく、其れ以外はよくわからなかった言葉。それだけでしかなかった言葉なのに、どうやらどこで聞いていたのかそれとも宗像自身から聞かされていたのか、主には違ったものになる。
 主にその言葉は天啓となったようだ。

 そうしてあたしは軍人への供物から軍への供物と相成った。

 とりあえず放り込まれた部署は驚く程軍以外の出身で埋められていた。諜報紛いのことは元主のところでもすこしばかりやっていたが、訓練とは言えまあ死ぬかと思う事ばかりを味わった。身体や色で済むなら非常に楽なのだが世の中はそうもいかないらしい。馬鹿馬鹿しくも死にそうな意識の中で思い出すのはいつも宗像の姿で、ああ縋っているのだなと自覚した。
 殆どが男の機関で彼らは非常にわかりやすい指針を持っていた。一応の軍属と言ってもお国のためにこの命を、というものではない。自分の場合も彼らと同じだった。同じだったが根本が違った。為せぬものがあってはならぬ。自分がそう思うのは「有能である事」が自分を見出した宗像の価値を高める事になる、とただ頑なに信じていたからだ。我ながら女というイキモノは恐ろしい。

 どうしてだか才能なんてものがあったらしく軍で重宝されるようになり、自分は体躯を生かして男にも女にもなって世界を飛び回った。まったく宗像の先見の明には恐れ入る。人を陥れ時には生かし時には傷付け全てに於いて奪う。相変わらず視界をうろつく魑魅魍魎が謀らず助けになってくれたこともある。あれは人の強い感情に寄ってくる場合があるから上手い事使えば探知機代わりやいろんなものに成るのだ。
 

 そんな月日がいくらか流れて。
 死ねないから生きていた餓鬼は、生きたまま幽霊と呼ばれるようになった。



---------------------------------------------------------
20090711

捏造しまくり。たぶんみっつかよっつで終わります。