「ご無沙汰しております」
 揃えた手指を軍帽に当てるという動作を取りながらそんなことを言えば、目の前の男は咎める事もなくただじっとこちらを見た。当たり前だ。男の前にいるのは「幽霊かもしれないと噂されている青年将校」なのだから。さてこの言葉は男の記憶に残っているだろうか。
「今日は暑いから袖を濡らしてもすぐ乾くでしょうね」

 いつかと同じく瞠目した男を見て思わず破顔してしまった。





 どこに塒を見つけているのか蝉の声が聞こえる。ばたばたとすれ違うこども達の影は酷く長い。赤く染まった路地を歩くのは背筋の伸びた男と癖毛のモガだ。
「それで君の事は何と呼べば良いのかね」
「……」
 宗像はこちらの事情を知っている。以前会った時の名ですら本名ではないものだし、名前と経歴だけは山のように持っているからどうしようかと悩んでしまった。親が授けてくれたらしい名は初めて人を殺した時に天へ還してしまった。身体を使ったときには名字を育て親の墓へ埋めてしまった。さてどうするか。
「宗像さんのお好きなように呼んで下さい」
 結局面倒で丸投げしてみれば、宗像──宗像さんはふむ、と顎に手を当てて考えこんだ後ぽつりとひとつの名を呟いた。この人には珍しく小さな声だったが優秀な耳が拾うのには何の問題もない。
 では、なるみ、と。
「ナルミですか。なるみ…実が成る?」
 良い名ですねと言った後に尋ねてみた。昔の偉いさんの字を読み替えたのかと思ったのだ。この人は国の昔語りが得意だったはずだ。洋館での記憶には成実という名の忠臣が残っている。なるみ、成実将校、と呼ばれる自分を想像してありえない話だがすこしばかり可笑しくなった。内心で笑っている間に宗像さんはもう一度考え込んでからこちらを見て笑った。
「いや、珍しくもないが海が鳴る、だな。良い名前だろう」
「ありがとうございます」
 ヂイイとまだ蝉が鳴いている。
 幽霊の正体を知る者の中に元主ももちろん入っていたが、禿がちょっとばかし欲深になり過ぎて軍に消されたらしいのはこの頃のことだった。宗像さんが驚いていたところを見ると軍に売られたのはどうやら禿の独断だったのだろうか。
「ここだよ。狭い我が家だがね」
「いえ」
 せっかくだから話でもしよう。つれて来られた家は確かに宗像将校の収入を思えば狭くはあるがどことなくあたたかみがある。そう思ったところで現れたのは大人しそうな、この場のあたたかみを集めて人間にしたような小柄な女性だった。
「お帰りなさいませ」
「戻ったよ。鳴海君、家内だ」
「ようこそ。電話で聞いてましたけど、まさかこんなに若い方だったなんて」
 控えめに笑った宗像さんの細君はちらりと夫へ視線を寄越した。こほん、と咳をしてこちらの背を押す。
「鳴海君だ。私の友人だよ」
 その言葉に起こった感情はどう表現すればいいだろうか。何も言えない自分に、宗像さんはわかりにくく笑い細君はあらあらと口元を綻ばせた。


 友人だと細君に紹介したまま、その後の宗像さんとの付き合いは歳の離れたしかも異性の友人だった。軍属でありながら軍人に非ず、といった存在だから当然なのかもしれない。だけど「鳴海」はそれがうれしかった。命が下れば宗像さんも任務対象になるのだろうが、それが訪れない事を祈るばかりだ。軍部では彼を変わり者扱いしていたから可能性は低いような気もする。一番怖いのはまっとうな人の皮を被った奴だ。
「超力」
「超力兵団計画だ」
 細君の手料理に舌鼓を打つ間に聞いた話は、宗像さんの口から出なければもの言わぬはずの幽霊でも笑ってしまったことだろう。こういうことを明かしてくれるのは軍属扱いされている証拠でもある。いつも宗像さんは真直ぐ伸びた背そのままに真直ぐ国を想っていた。軍人である程度以上の立場にいるなら、目を背けたくなるものなど厭になるほど見ているだろうに真直ぐだった。自分が真に軍人なら疎ましく思うと予想が付くぐらいには。
「そりゃ、すごい」
 噂程度に知っていた話を本人から直接聞かされ、返答出来たのはそれぐらいだった。熱く語り出そうとしたのか僅かに身を乗り出した宗像さんが一瞬固まって居住まいを正す。すとんと襖が動いて細君が盆を片手に部屋へ入って来た。
「あらあら楽しそうだこと。鳴海ちゃんたくさん食べてる?」
「はい!あ、うれしいなー奥さんの煮物好きなんです」
「ふふ、ありがとうね」
 だって美味しいんですもの、続けたかった言葉は煮物の一口目と一緒に飲み込んでしまった。最初は素直に言っていたものだが、言ってしまうと普段楚々とした佇まいの細君が歓声を上げてこちらをぎゅうっと抱き締めてくるのだ。自分の肩程の身長しかない女性に抱きつかれる図は端から見てもよくわからない光景だっただろう。どうしていいかわからなくて彼女の夫へ目をやっても珍しくにやにやと笑われるだけだった。
 何度か宗像邸を訪れるうちに何故だか細君はえらく「鳴海」を気に入ってくれた。鳴海ちゃん鳴海ちゃんとこちらを構い食事を与え髪飾りなど贈ってくれる姿は少女のように無邪気で、自分も彼女を酷く好きになるしかないだろう。二十近く年下から言うのも失礼だがなんともかわいらしい。しかも作る料理が美味いのだから文句の付けようもない。
 宗像さんの知人の屋敷に務めていた頃知り合って、今は帝都で一人暮らしをしている女。流行ものに少し弱くて財布の紐が緩く手先は器用だが器用貧乏になりがち。「鳴海」はそんな女だった。はきはき何でもこなすけれどふいに抜けて失敗をやらかすような人物を完璧に演じていたつもりではいたが、それは自分の本性に近かったのかもしれない。まあ、どんな人格を演じたところで自身に違和感を覚える事などなかったから実際のところは誰にもわからない。
 密偵は自分の天職なのだろう。密偵しかできないというのが正しいか。
 無理を言って細君も食卓に混ざってもらい、穏やかな食事を続ける間に視界を薄青い影が横切った。ひらひらと不揃いな翅で飛ぶそれは細君の頭上を一周してからこちらをじっと見て、庭へ消えて行く。
「鳴海ちゃん?」
「いえ。いつもながら見事な庭ですね」
「おばさんの手慰みだけどね」
 手入れされた庭にはどの季節でも折々のうつくしさで人の目を楽しませてくれる。魑魅魍魎、洋行した際手に入れた知識では悪魔などと呼ばれるものにも何故だか庭は愛されていた。庭の花や木に縁がある出自なのかもしれない。庭に手をかける細君まで奴らは気に入っているらしく時たまこちらをじっと見据えてくる。それはさながら親を取られまいとする幼子のようだ。
 何、心配することはない。この人を取るなんて出来ないよ。
 心の中で言いながら杯を枝に座る薄青へ向けて飲み干す。薄青はひらりと翅を一度揺らして木の葉の影へ溶けてしまった。けほ、とちいさく細君の咳が聞こえて溶けたはずの薄青が一度だけ瞬いたような気がした。


 いくつか季節が巡り、訪れたものの家主が急な呼び出しで出て行ってしまった宗像邸で自分は細君と茶を啜っていた。なんでこの夫婦は茶を両の手で持って啜るのだろう。普通は片手が底を支えると思うのだが、器用に指先を底と縁に当てて支えている。
「あらやだ恥ずかしい。癖は出ちゃうものね」
 客人としてよりは余程身内扱いしてくれる細君がそんなことを悪戯な笑みで言うのでつられて笑う。手土産として持って来た羊羹は割と当たりだった。小豆の甘味が舌にやさしい。
「あの人とは幼馴染なのよ。いつもお茶どきには揃って近所のご夫人のところでお八つを頂いてて……あの頃から変わらないのかもしれないわね」
 細君の幼い頃ならそれはそれはかわいらしい娘だったんだろう。逆に宗像さんの幼い頃はちっとも想像出来なかった。ざざ、と風が庭の花を揺らして通り過ぎて行く。こほん、と細君がわざとか自然のものかわからない咳払いをした。目は庭を見たままで。
「鳴海ちゃんはかわいいわね」
 思わず茶を吹き出しそうになった。多少見目が良い自覚はあるが、自分より余程かわいらしい人に言われてしまえばそれは笑い話でしかない。
「そ、っんなことないですよ…、ありがたいお言葉ですけど」
「あら本当よ?私、鳴海ちゃんがかわいくて仕方ないもの」
 それは知っています、と言えば細君はころころ笑った。細く整った指先が竹の刃で羊羹を切り分ける。
「……もし気を悪くしたらごめんなさいね。私あの人に鳴海ちゃんを紹介されたときほんとうに驚いたのよ。あの人がこんな若いお嬢さんを連れて来たっていうのももちろんあったんだけど」
 ひら、と薄青が木陰に見えた。
「あのね、私達の子の名前、なるみって言うの」
 一口大というにはえらく小さい一切れを口に入れ、丁寧に咀嚼し飲み込んでから細君はあら美味しいと呟いた。固まるこちらとしてはどうすればいいのかわからない。宗像の家にご子息ご令嬢が居るだなんて情報はない、それならば。
「産まれてこれなかったあの子とおんなじ音だったから。あの子が帰って来たのかと思って……馬鹿よねぇ。すぐ自分が馬鹿だと思ったわ。名前なんて関係なくても、鳴海ちゃんはこんなにかわいい良いこだし、私は貴女が大好きなんだもの」
 その後は授かれないままこんなに歳を取っちゃったけど、こんな素敵な出会いがあったんですものね。
 細君に頭を撫ぜられながら、頭では何も考えられないのに左脇腹の下辺りがしくりと痛んだ。元主の洋館につながれていた頃、興が乗り過ぎた禿に付けられた傷は背中寄りの場所にしっかりと残っている。内側の何をどう傷付けたのかはわからないが、おかげ様で月の穢れは滅多とこの身体に訪れない。色を使う時に流す手間がないのが楽と言えば楽だけれど、傷痕を隠すのには毎回難儀している。幽霊にも苦労はあるのだ。どうせ子を産む事などできないだろうし。
 逃げをうっていた思考がじんわりと身体を浸す頃、細君がおかわりを持ってくるわねと言って席を立った。どう返事をしたか覚えていない。
 ざざ、とまた風が木の葉を揺らした。

 うれしいのに絶望するっていうのはこういう気持ちを言うんだろうか。

 細君の愛情に嘘偽りはなく、とてもとてもそれはうれしかった。宗像さんが心底大切にしているだろう「なるみ」の名を自分に与えてくれていた事もうれしかった。それでも。
 なるみをくれたのは間違いなく自分を思ってのことだろうけれど、それ以上に細君のためだったに違いない。当たり前過ぎる話だ。だって宗像さんは細君を深く深く愛している。宗像さんが真に愛しているのは細君だ。彼が憂うこの国の真ん中に細君が居る。鳴海は誰よりも近くでそれを見て来たじゃないか。ならば何故絶望などしているんだ。
「……、はは、」 
 鳴海は、自分は、さもしくも嫉妬した。細君に。あんなにもかわいらしい人に。
 吐き気がするような嫌悪感は自らに対して覚えたものだ。滑稽じゃないか、彼への気持ちに細君へに向けるものとは違って恋情まで含んでいるだなんて。宗像さんが好きだなんて馬鹿げていると思う一方で、ずっと前からそれを知っていたとも認めていた。縋っていたのも、彼のためにと理由をつけて自分を奮っていたのも当然だ。
 誰だって──好きな人のために動きたいだろう。
「は」
 宗像さんと細君と。二人とも細君に倣って言えば、大好き、なのに。ひらひら薄青が寄って来たのが癇に障り、触れられもしないのに手で追い払う。何故だかこの目は奴らを見る事はできるけど触れる事は出来ないらしく、案の定指は薄青を擦り抜けささやかな風を作り出しただけだった。
 ちいさく足音が聞こえる。細君が戻ってくると思えば顔は簡単にいつもの表情を取り戻した。揺れる感情を殺してしまい込むのはお手の物だ。羊羹を気に入ってくれたみたいだから時間があるならあの和菓子屋に連れ立ってみようか。季節の生菓子の彩りがとても綺麗だったから、細君はきっとあの少女のような笑みを浮かべてくれるに違いない。
「おまたせ、鳴海ちゃん」
「ありがとうございます」
 幽霊がうれしそうに笑った。だって心から思っている。ひょっとしたらつらいことかもしれないけれど。


 あたしはこの場所で「鳴海」でありたい、ただそれだけだった。



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20090713

捏造し過ぎててここに書く事を思いつきません…おおお。