「あれは長くないかもしれない」
 嘘だ。貴方は、貴方だけはそれを言っちゃいけない。
 固まるこちらを見て宗像さんは困ったように笑い、いつかと同じく癖毛に手を弾ませてそっと離れた。目で追う手のひらが再度近づいて目元に触れる。なんで、と思ったところで本人の口から理由が知れた。
「鳴海君が泣くことはないよ」
 言われて初めて泣いていることに気づいた。ぼろぼろ涙を零すだなんて何時ぶりだろう。任務に必要で泣くことはあるけれど、こんな、迷子になったこどものように泣いたのは記憶にもない。
「……いや。あれはしあわせ者だな。君がこうして泣いてくれるのなら」
 止まらない涙を何度も何度も手の甲で拭っているともう一度宗像さんの手が頭に載せられる。その重みがうれしいだなんて自分は馬鹿だ。こんなにもかなしいのに。
 ゆっくり首を横に振ると、ありがとう、小さな声が聞こえた。
「時間がある時でいい。妻を見舞ってやってくれないか、きっと何よりの薬になる」
 喉に熱の塊がひっかかって喋れないから大きく頷くしかできない。拭いきれない涙を放置してただ俯く自分の頭を、宗像さんは泣き止むまでずうっと撫ぜていた。それこそ幼子にするように。

 宗像さんの細君が床に伏したのは春が少しばかり勢いを付け出した頃だった。季節を眺めて和んでいる最中に咳が目立つようになり、元々宗像邸を訪れるのはそう頻繁ではなかったが、見る度に小柄な身体がさらに小さくなっていった。
 宗像さんに言われるまでもなくできるだけ任務の間を縫って顔を出せば、細君は料理を褒めたときと同じにころころと笑った。間に咳が混ざる姿はこちらの心を痛ませたが、やっぱりこの人の笑う姿は少女のようだ。調子がいい時などは半身を起こしているので長い黒髪を梳る手伝いなどもした。宗像さんが気に入っているらしい髪に触れることへ抵抗がなかったわけではないが、本人から請われてしまえば仕方がない。
「鳴海ちゃんの髪はふわふわねえ、かわいい」
「朝なんか酷いもんですよ?奥さんの髪はまっすぐでいいじゃないですか」
「だってキネマの女優さんみたいじゃない」
 かわいらしいことを言う姿に思わずちいさく笑う。再び横たわるのを助けながらしばらく仕事で来れないと告げれば、細君はとてもわかりやすくがっかりしたようだった。宗像さんも忙しなく海外へ足を運んでいるようだからあまり帰宅していないらしい。愛妻家の彼自身も辛いだろうが、病床の細君が不安を覚えるのも当然だろう。
「桐が咲く前にはまた寄らせてもらいますから」
「待ってるわね」
 庭の端に植えられた木は桐なのだと先日教わった。そこには常通り薄青がまとわりついている。もうこちらを警戒することも無くなったようだが、何故だか細君の周りを飛ぶのはやめたらしい。悪魔だとかいうものの考えることなどわからないけれど何か思うところがあるのだろうか。
「鳴海ちゃん」
 部屋を辞し、襖を閉めかけたところで細君の声がこちらを呼んだ。拳一つ程の隙間から見る細君の顔は困っているようにも笑っているようにも見える。部屋へ戻ろうとすればそのままで聞いてちょうだい、とお願いが投げられる。
「あのね。私、もうずうっと前から思っていたことがあって」
「はい」
「……あのね。何度かあの人にお願いしてたの。あのこ、うちのこになってくれないかしらって。『無理だと思うよ』って言われてたんだけどね。私もそう思ってるんだけど……そうなったら素敵だなって、ずうっと思ってたの」
「……」
 ぱち、まばたきで一度視界は暗闇になり直ぐさま景色を取り戻す。細君は笑ってから目を閉じた。
「鳴海ちゃん、ごめんね」
 おやすみなさい。またね、待ってるから。

 仮初めの住まいに戻って畳に寝転んだ辺りで堪えきれなくなり、自分は盛大に笑った。無理を強いられた頬の筋肉が些か痛い。
「ははははは、はは、っ、はー……、」
 寝込み出した当初の細君はよく「ごめんね」と口にして自分に怒られていた。見舞いたくて見舞っているんだから何も謝ることは無いと根気よく言い続けて漸く言わなくなった位だ。たまには家政婦を入れているようだが、細君がもてなせないと謝る必要はどこにもない。勝手知ったる他人の家という言葉そのままにいつも自分で茶を設えていた。
 久々に聞いたごめんねの言葉。
 ごめんねを聞きたくなかったのは他にも理由がある。最大の負い目を彼女に感じているからだ。謝らないで欲しい、自分は愚かにも宗像さんに──貴女の夫に懸想している。ただ間違いなく自分は細君が大好きで、彼女に嫉妬する自分がだいきらいになった。だってほんとうにふたりとも大好きだったのだ。
 鳴海ちゃん、ごめんね。
 頭の中で甦った言葉に下ろしていた瞼を持ち上げ、畳へ頬を押し付ける。黒というには少しばかり明るい色をした癖毛が散っているのがちょっとだけ見えた。細君とは何もかも真逆に違いない身体。有能な身体には違いない。
 この身体を産んでくれた両親も育ててくれた夫婦も、きっと自分には大事な親なんだろう。古い記憶にちらちらと見える程度にしか残らない彼らには感謝している。それでも。
「うちのこ、かぁ」
 宗像さんが細君に言った通りそんなことはできるはずがない。細君は知らないが「鳴海」は自分が宗像邸を訪れる時だけの存在だ。普段の自分はその時々によって違う人間として生きているから。
 私もそう思ってるんだけど。細君はそう言った。
 宗像さんとは違う理由で、細君は無理だと思ったのだ。その事実が指すのは。
「……は、」
 細君はきっと、こちらの想いに気づいている。
 とてもかなしいのにぎゅっと目を瞑っても涙は溢れなかった。何でだろう。細君を思って泣いているのは同じなのに。
 いつもいつも丸い真っ黒な瞳で、夫のように真っ直ぐに鳴海を見て笑う細君が目を閉じてごめんねと言ったのはどんな心境からだったのか。
 同じ人間を心底愛しているから気づかれたのか、普段の細君や性格を思えば多分墓場まで持っていってくれるつもりだっただろうそれを、こちらへ告げたのはあの人も女だという証なのかもしれない。冷静な目で判断すれば宗像さんが言うように細君に残された時はそう長くないだろう。最愛の人を残していく細君がこれからも生きていく鳴海に対してどんな思いを持っているのか鳴海にはわからない。自分にもわからない。
 ごめんね。
 鳴海はやはりその申し出を承諾出来ない。父親に懸想する娘が何処の世界にいるというのか。細君は鳴海の想いを正しく理解して、それでも自らの「素敵なこと」を素直に夢見て、大好きな鳴海に言ったのだ。あのかわいらしいひとは。
「……酒」
 急にアルコォルが恋しくなり、のろのろと身体を起こして自分は鳴海ではないイキモノになった。明日からは海を越える。日本を惜しんだって罪は無いはずだ。酒を飲もう、美味いものを食べよう。それがいい。
 どうせ酔わないのだからとびきり上等な味のを飲もう。金はあるから。


「ち」
 下品な舌打ちをして塒に転がり込んだ。深く切られた腕の傷はまだ血が止まらない。埃臭い床に足を投げ出してとりあえず止血する。応急処置ができるだけまだマシか。
「……、っくしょ、久々だなこういうの」
 与えられた指示は完遂したが今回は少し苦戦した。潜り込んだ矢先に目を痛めたからだ。僅かな油断か単なる力量不足か、殆ど視力を奪われたままでどうにかこなした自分を自画自賛して低く笑う。なるほど、感覚をひとつ奪われたら他が鋭敏になるとはこのことか。視覚を閉ざした状態での訓練も嫌になるほど受けたが実際になってみれば大違いだ。
「……治りそうだな」
 全く見えなかった視界はこの二週間程でぼんやり程度に回復した。本部に戻って専門医に判断してもらう必要はあるが、いずれ治る類いのものかもしれない。そうであるならありがたいものだ。見えなくてもそれなりの仕事ができると分かったのはいいけれど、見えるに越したことはない。鼻先まで手のひらを持ってきて漸く輪郭がはっきりするこの状況では眼鏡が必要になってしまう。
 宗像さんの丸眼鏡を思い出し、ひっそり笑おうとしたところで部屋の隅に気配を感じた。懐の銃に手をかけながら注視しても暗闇が広がるだけだ。仲間とも言い難い連中が自分を回収しにくる時間には少し早い。なら、これは。
 はっきり見えない暗闇から唐突に生まれたのは薄青い光だった。ひらひらと蝶のように羽ばたく姿はもう馴染み深いと言っていい。宗像邸でしか見ることの無い薄青が何でこんな海も国も越えた場所にいるのか。ひら、薄青がゆっくりと近付いてくる。
 本能に近い恐怖なんてものを感じながら視線を薄青から外すことが出来なかった。だんだん視界を埋める割合を増す薄青に、僅かながら身体を引いても背中を壁に押し付けているだけだ。
 何でお前が此処にいる。
 お前の居場所はあのうつくしい庭の桐じゃないのか。
 桐、と浮かんだ瞬間に頭を過ったのは桐の花と細君の顔だった。桐の花が咲く前にまた寄ると言った。もう日本では咲いてしまっているかもしれない。細君は拗ねるだろうか──あのひとは。
「まさか」
 逃避のような思考の真ん中を切り裂いたのは認めたくない予感だった。なのに、こちらの思考を読んでいるかのように薄青がくるりと回った。まるでその通りだと告げるように。
「ッざけんな、馬鹿なこと言ってんじゃねえ!あのひとはまだ、」
 死んでいい人じゃない。宗像さんの帰国はまだ先なんだ。細君がもしほんとうに死んでしまうとして、ひとりで逝くなんて。
 辿り着いた考えに自然と俯いていた顔を上げる。いや、まだだ。薄青は此処にいる。細君を愛している薄青ならば、最期の時は細君に貼り付いているはずだ。それが此処にいるのだからきっと、辛うじて程度に、絶対生きている。ただ薄青が報せに来たというのは。
「くそ、今から帰るったって、船で何日かかると──」
 薄青がひらりと舞った。魑魅魍魎。悪魔だとかいうもの。幻視の存在。
 悪魔、だ。何故か自分にはこれが見える。
「そうか。……お前、悪魔だよな」
 洋行で得た悪魔の知識を引っ張り出す。萬話に過ぎないものであれば悪魔の言い伝えはいくらでもあった。呼び出す術を持つ妖しい存在も居ると知った。その時はふうん、見えているのはそういうものなのか、ぐらいにしか思わなかったが。
 悪魔は時に人と契約を交わす。
 人が身を滅ぼす話が殆どでしかもどれもが等価交換だとは思えない、人の命を代価にするような契約ばかりだった。悪魔が欲しがるのはいつも人そのものか金銀宝石の類いだ。なら。
「この目をくれてやる」
 幽霊が召される訳にはいかない。今回のことを思えばこの先視力がなくともどうにかなるだろう。この場で交渉に使える道具は自分しか無い。足りないかもしれないけれど駄目なら薄青が此処に現れるはずが無い、と思いたい。ただの願望かもしれない。ぐちゃぐちゃと焦る思考の中、ひとつだけが明確だった。
 あの人の最期が一人だなんて嫌だ。許さない。
「今は痛んじゃいるがそれなり優秀な目だ、こんなもんでいいならくれてやるから!頼むから、あたしを、あの人のとこまで」
 慟哭じみた言葉が埃混じりの空気を裂く。ひら、揺れる薄青。
「連れて行け!!」
 ぶわりと広がったのは翡翠色に光る靄だった。よく見えなくても頭を揺さぶられるような刺激を受けて思わず目を閉じる。瞼の裏には薄青の光が残っている。
 身体の中をめちゃめちゃに掻き混ぜられているような不快感に遠ざかる意識の中、薄青が揺れてぼんやりと考えた。ああ、どこかで見たといつも思ってたけど。

 お前は桐の花と同じ色をしている。






 
 風が強い中どうにか手で覆って線香に火を灯した。ひらひら手を振って炎を消し、納めて手を合わせる。俯いて揃えた手の向こう、足下ではためくコートの裾を眺めていると、まだ慣れない眼鏡がずれて視界がぶれた。
「お久しぶりです」
 仕事帰りなんでこんな格好で申し訳ないですけど。
 今の自分はスーツに身を包んだ洒落男だ。細君がかわいいと言ってくれた癖毛は色を変えて帽子に詰め込まれている。
 結局何がどうなったのか鳴海にはわからなかった。はっきり覚醒したのは軍部の病院のベッドで、予定通り回収された幽霊は何日も眠り込んでいたらしい。外傷しかなかったのにと医者は首を捻り、戻らない視力には更に捻って首を一回転させる勢いだったので笑ってしまった。自分の視界はぼやけたままだから、契約は成されたのだと思いたい。
 翡翠の色に飲み込まれた後の記憶は曖昧だ。
 目を開けばそこはあの部屋で、布団の中、細君がこちらを認めてうれしそうに笑った。鳴海ではない人物を見て鳴海ちゃん、と言って。何でもない会話をすこしだけして、細君に女の子なんだから怪我とかしちゃ駄目よだなんて言われて、伸ばされた指先を頬に当てて頷けばまたころころと笑う。
 なるみちゃん、鳴海ちゃん、だいすき。ありがとう。
 何も言えない自分はたぶん酷い顔をしていたと思う。笑う細君はふと気づいたようにこちらの背後へ視線を送り、ぼやけた視界でもやはり少女めいた雰囲気と声でただ一言、
 お帰りなさいませ と言った。
 そこで自分は振り向いたような気がする。良く覚えていない。とにかく次の記憶は病室で、疲れや怪我がつくりだした夢を見たのかと恐れたが視力の他にも変化は起きた。
『美味そうだ』
「かすめてんじゃねぇよ、羽虫が」
 供えた羊羹に手を伸ばしてきたのは引き攣れた翅をふるわせる二つ足の何かだった。指先で追い払えば声を聞かれたことに驚いたのかそそくさとどこかへ消えてしまう。
 悪魔を見ることが出来る目があまり使えなくなった代償なのか、人ならざるものの声まで聞こえるようになった。体調が良ければ僅かに触れることも出来る。五感はすこしばかり煩わしくなったが、まあこの先付き合うことを余儀なくされた能力なら慣れるしか無い。
 病院を出たらもう細君は墓に入っていた。宗像さんも何時からなのか帰国していた。挨拶だけはしたけれど細君を看取ったのかは聞いていない。一度家の中に入ってみれば、庭の桐の前で立ち尽くしているのを見てしまった。深く悲しんでいる人に何も言えず踵を返したのはほんの数日前の話だ。力になりたいと思っているけれど、会って話をすればきっと鳴海は泣いてしまう。泣いてしまえば宗像さんは涙を流さず、ただ鳴海を慰めるんだろう。彼を煩わせるのは本意でない。
「少し長く日本を離れます。何か土産を買ってきますね」
 言われた通り、怪我しないように気をつけますから。
 膝をついていた姿勢から立ち上がろうとして、急にかなしくなった。こんな事態になってもまだ、性懲りも無く宗像さんに懸想していて、細君も大好きで。
「ではまた。……行ってきます、ーーーーー」
 おかあさん。
 こんな馬鹿げた想いを持たなければ、このひとが望んでくれたように、そう呼べただろうに。ほんとうに自分はどうしようもない。例え戸籍の上や実生活では無理だとしても、かわいらしい貴女の望みを叶える術を鳴海は持っていたのに。こうして墓の前で自分にも聞こえないぐらい小さな声で呟くしか出来ない。

 こんなにもかなしいのに涙は流れなくて。
 何よりも愚かなのは自分だと自嘲しながら顔は笑って、墓に背を向けた。



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20090720

あとちょっと。反転はいらないかと思いつつ付け加え。