人を抱く事に慣れた腕が身体を辿る。
 くく、と喉を鳴らせば目の前の男が気味悪そうにこちらを見上げた。
「……何笑っとんねん」
「すまんね」
 詫びの代わりに口付けても男の機嫌は良くならなかったらしい。まあ予想出来ていた事だが申し訳なく思って正直に告げた。
「いや、あんたが巧いから……あんな拳を出す腕がオンナまでなかしてると思うとな」
 男は盛大に顔を顰めて溜息を吐いた。これでも褒めてるのにな、と思いながら小さく笑う。
「嫌そうな顔するなよ。健三が巧いって言ってんだから」
 秘密将校なんてものをやっていれば自然と軍を介さない情報源を持つ事になる。帝都を暗躍していれば深川の任侠と知り合う事になるのは半ば当然の事で、幾らかの縁と相性もあったんだろう、それなりに気安い仲になるまで思っていた程時間はかからなかった。
「そういやあたしのこと凄い目で見てる奴いたな。新入り?」
「お前が健三て呼ぶからやろ。わかっとんのに聞くな」
 儂に拳を抜かせた女も健三て呼ぶ女もお前ぐらいや。
 確かにふらりと訪れた女が馴れ馴れしく若頭を名前で呼んで絡み付けばまだ若い弟分が動揺を表に出しても仕方ないのかもしれない。任侠の前には何度か姿を変えて現れているが、ちょっとした暗示を与えてやる度すぐに自分だと気付くのだからたいしたものだ。今回の姿はもう長いから馴染みの弟分達もいる。
「そんなの西に戻れば幾らでも居るんじゃねぇの」
「勝手に言っとれ。……儂があっちに顔出すんは親父に何ぞあるときぐらいや」
 そこまで言って任侠は僅かに瞠目すると視線を合わせて来た。にっと唇の端を持ち上げてやれば盛大な溜息が胸元にかけられる。
「急ぎか」
「んー、来週あたりがきな臭いかね」
「ふん……まあええ、礼や。お望み通り泣かしたるわ」
 固く握れば人を圧倒する力を存分に放つ手が、強引にこちらの頭を引き寄せ唇を貪る。傲慢な振る舞いに見えてそれでもやさしい手のひらの感触に喉が鳴り、笑いを飲み込んだ後は互いに情欲を呷るだけだった。羽黒組に起こりそうな厄災の気配を伝えたのは常々の情報提供に対する礼と、単純に自分がこの若頭を気に入ってるからだった。騙すでもなくただそうであると割り切って寝るのは意外と貴重な時間で、ただ欲を追うのに必死になるましろの瞬間はどこまでも気持ちいい。
「は、あんたの趣味のくせに……舐めても挟んでも不満げな顔しやがって」
「不満とは違うんやけどな」
「知ってる。喘がせる方が好みなんだろ? 玄人相手でも泣かせてるくせに、素人さんを壊す、な、よ、健三……、んんッ」
「こんなやらしいに腰使う女が壊れるかいな」
 任侠が本格的に動き出せば、勝手に口から零れる嬌声をもう止める事が出来ない。男を受け入れて感じるだけのイキモノになる自分を頭の何処かで見つめながら、与えられる熱へ素直に溺れた。

 別れ際、任侠は「達者でな」と一言告げた。勝手に寝床を離れて別れの挨拶などしないことが多いが、顔を合わせてから別れる時にはいつもかけられる言葉だ。ただ、響きがいつもと違う様に聞こえたのは覚悟の差、だったんだろう。まあこの男が西で命を落とすとは考えにくいのだが。
「そっちも。また世話になりにくるわ、そのうちあいつらの前で「健ちゃん」て呼んでやろうか」
「気持ち悪い呼び方すな!」
 くくく、と嫌そうな任侠に喉を鳴らしてみせる。まあ今の自分でいるうちは健三と呼んでやるつもりだが、また変わった時に考えるか。暇があれば舎弟達の前で深層の令嬢みたいな格好して「佐竹サン」とか言いながら思いあまった様に抱きついてやっても良い。そんな暇が来る事はないだろうけど。






「達者でな。ーー」





 ああ、そうだ。それはあたしの名前だったっけ?