ざあああああああああああああああああああああ。
 雨が降っている。

 このまま死ぬのかな、とぼんやり思った。いや、死ぬに違いない。失血死なのか溺死なのかはわからないが、もうすべての感覚が鈍くなって来ている。それにちらちらと変な夢だか幻覚だかも見ている気がする。これが噂に聞く走馬灯、とかいうやつだろうか。全部ほんとうにあったことだろうか。ぼんやりとしか考えられない頭ではとても判別が付けられそうになかった。
「…………」
 まあ、嫌気がさしたというだけの理由で軍を抜けようとした身だ。正直本当に軍属だったのかという疑問が残ったりはするが、ここまで逃げただけでも上出来だろう。もう、軍に宗像さんもいないし。自分とは違って追い出された形だが、あのひとは今どこに居るのかな。少しでもしあわせでいてくれるといい。
 密偵で頑張らなくてもいいんなら。
 疲れた、と。泣き言を言っても許されるだろう。

 ざあああああああああああああああああああああ。
 雨が、降っている。

 再度視界の端を掠めた薄青の色に久々だな、と思った。最後にひとつだけ、薄青に告げたいことがあったのを思い出す。取引をしたあの時から一度も見かけなかったから、もう会う機会がないと思って諦めていたけれど。
 僅かな力を振り絞って注視すれば、地面に叩き付けられる雨に混ざって鼻先に質の良さそうな草履が一揃い見えた。さっきまで何も無かったはずなのに朦朧とした意識では気配を感じられなかったのか。
「ほう。女ですか」
 人の声が人ではないイキモノから聞こえる。これはなんだ。
 冷たい透き通った声は鈍った聴覚でもはっきり聞こえた。魑魅魍魎達の声と同じく頭へ直接響く。しかし人の声としても聞こえる。これはなんだ。ひょっとして自分はもうとっくに死んでいるのかもしれない、そう思ったところで声は続いた。
「生体マグネタイト量は一般人と変わらず。しかし魔を知覚出来る程度には染まっている。……なるほど、面白い。悪魔と契約を果たしてもこの世に留まり続ける魂とはどんなものかと思えば」
 べらべらと話す声がうるさい。身体が動けばルガーの弾を埋め込んでやるのに。
「女」
 淡い翡翠の光が身体を包み、ふ、と身体が楽になった。とうとう逝くのかと思ったのに少し五感が戻ってくる。ならばと顔を僅かに上げて声の主を見れば、黒の頭巾を被って口元だけを覗かせた着物の女が立っていた。その口元は冷たく微笑んでいる。
 夜と同じ色で身を包んでいるのに、夜からは浮かび上がっている姿。これはきっと自分が常人よりも夜目が効くから、だけではない。
「有能な陸軍秘密将校で在ったなら貴公も名を耳にした事があるでしょう。私は超國家機関ヤタガラスの一端」
 超國家機関。それは軍の暗部中の暗部として確かに耳にしたことがある。関われば碌なことにならない予想は容易く出来たし、自分の求める情報に有益とは思えなかったから意図して深く探らなかったけれど。半ば「なんとなくイヤだから」というだけで触れることすら禁忌扱いにしたその暗部が向こうからお出ましとは、やはりこれは死に際の夢なんだろうか。頭の何処かが現実だとはっきり判断しているのにそんなことを思った。
 この死にかけに何の用だ。
 口にする事の無い疑問は頭巾の女に拾われたらしく、頭に響く声ではなく耳に届くそれが続いた。どうしてだか雨音が遠い。溺れそうなのは変わらないのに。
「秘密将校としての能力。そして悪魔を知覚出来る性質。条件が重なった故と判断も出来ますが、その条件を重ねた運……自ら悪魔と契約を為した貴公を我等ヤタガラスは高く評価しております」
 ひら、と女の足下を薄青が掠めた。
「このまま捨て置けば貴公の命は失われるでしょう。我等としてはそれが惜しい」
 揺れる薄青は何時も一対の羽根ばかりを認めていたのに、久々に見ればぼんやりとちいさな人の形をしているように見えた。ただやはりそこには全長ほどもある一対の羽根がくっついてひらりひらりと揺れている。ああそうか、お前はやっぱり。
「我等の技術をもってすれば貴公の治療は可能です」
 ひらりひらり、ひら。
 薄青は女の向こう側へ消えて行った。
「応える事を肯定として受け止めます。受け入れられぬなら口を噤んでいれば良い。貴公ならその亡骸も悪魔に好まれるでしょう」
 生きていてもどうせ軍に追われ続けていつかは死ぬだけだ。傘下に下れと女が言っているのは嫌になるほど解る。下れば軍にも手が回るのだろう。
 もういいか、と。死んでも良いかと思ってここまで来た。慰みに逃げ回っただけだったのだから、死んでも良いと。
 それは死にたいと同義なんだろうか。ただ、薄青が。
「答えなさい」
 死ねないから生きていて。
 幽霊と呼ばれて。
 ──出会って、
 生きて、
 死ねなくて、

 薄青。
 あのひと、達。
 死んではいけないと、
 だって。

 今、あたしは、生きて。
 
「貴公の名は」

 名?
 あたし?
 「あたし」は誰だ?

 土気と鉄錆、雨水。口の中は余分なぐらい濡れているのに貼り付く舌。
 動き難いそれを無理矢理持ち上げて幾度か噎せ、どうにか動かす。
 何を言いたいのかその瞬間まではわからなかったけど。
 口をついて出たのはたった一言だった。

 


「――――――鳴海」















 鳴海探偵社、と刻まれたプレートを下げるととりあえずはそれらしくなった。銀楼閣はもともと最先端の造りだがどうせカラスの金だと精々豪華に設えさせてもらった。まあ文句がないのだから痛くも痒くもないんだろう。
 今日からの身分は鳴海探偵社の所長様だ。ヤタガラスに拾われてからも何度か姿を変えて与えられた任務をこなしたが、出来が悪くはなかったからそれなりに評価されているんだと思う。
「……」
 鳴海。自ら選んだ割に、それを自分の名とするのは実のところまだしっくりこないけれど。
 矢来区筑土町への常駐を命じられて出来た立場をきっと自分は上手くこなせる、それだけは自信がある。密偵時代のコネもまだ数多く残っているし。
 屋上に昇ってみれば案外広く、居心地も悪くなさそうだった。大家が此処まで来る事は無さそうだし後で灰皿を備え付けておこうと決めて煙草を銜える。
「いーい天気だねぇ」
 薄青い空がどこまでも広がっている。この辺りでは何処よりも空に近い場所。結局自分は生きて、こうして紫煙を燻らせている。
 流行ものに少し弱くて財布の紐が緩く手先は器用だが器用貧乏になりがち。
 酒を飲み博打で遊び近所と仲良くしてだらりと日常を過ごす。
 合間に入る指令さえなければいい暮らしに違いない。
 いつも通り一人だし。
 帝都常駐であるからには他所から派遣される人間も来るらしいが、まあどんな相手だろうと上手くやっていけるだろう。それぐらいの能力はあるから。
「よっ」
 煙草一本分の休憩は終わった。顔見せと情報収集がてら飲みにでも行くか。
 いろいろと都合がいいから拵えたスーツのジャケットを手にして探偵社を出る。カチャ、と音を立てて施錠し、金属の冷たさを伝える鍵を何度か手で弾ませながら階段を下りた。


 あたしは何者か。
 結局のところ鳴海なのだ。


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20100311

死ねないと生きたいはまた違うけれども。
この話を書こうと思って最初に書いたのは最後二行でした。