「あぁ、いい夜だねぇ」 「はい」 ほろ酔いなのかふわふわ歩く鳴海の一歩後を付き従いながら、ライドウも上司と同じように夜空を見上げた。うっすらと滲む下弦の月は天辺より少し手前で弓を引いている。 珍しく入ったオカルト関係の依頼を片付けると、相当難儀していたのか依頼主が銀座で酒席を設けてくれた。懐も温かく明日は休日ならなんの問題も無い、と日が変わる前に依頼主とは別れたというのに小さな店に足を向け、料亭とはまた違う料理と酒に舌鼓を打てば時間なんてあっという間に過ぎる。 外だからちょっとだけ、秘密な。唇に指を当てて笑う鳴海はライドウにも猪口を差し出して自らも楽しそうに酒を干した。ゴウトまでもが足下で皿に注いだ酒を舐めていた。 「へえ。知らなかったな、合歓だ」 楽しそうな鳴海と美味いものと普段なら食事の席を同じにはなかなか出来ない目付けとの外食と。口の端が持ち上がるような記憶を思い返してこそばゆい気持ちになっているとふいに芯の通った鳴海の声が聞こえてライドウは顔を上げた。 真直ぐに伸びた幹から傘を開くように横へ進む枝。ひたりと手のひらを合わせるように閉じた葉が先端で地上を一斉に指す中で、細い糸をぎゅっと集めて根元を結んだような花がいくつも夜に浮かんでいる。 「これは……見事ですね」 「たまには知らない道を歩いてみるもんだな」 満開だ。 そっと鳴海の顔を窺えばどこにも酒気が残っているようには見えなかった。滲んでいるけれど月明かりは思ったよりも辺りを照らしてくれている。互いに只人よりは夜目が利くのも視界が明るい理由の一つではあるだろう。 「そうか、もう梅雨も終わりだよなぁ。合歓の季節か……。朝にゃしおれちまうから、これは宵っ張りの特権かね」 「眠り草の大きな木ですね」 「同じ仲間だからな。まあ眠り草みたいに触ったらどうこう、てのはないんだが。そういやライドウちゃんと触りまくった事あったねえ」 なんの巡り合わせかたまたま出会ったその植物は里では見たことがないもので、鳴海の指先が触れるとたちまち葉を閉じるそれをずっと眺めていた事があった。一度閉じてからまた開くまでの二十分程をずっと立ち尽くして待っていたら鳴海に苦笑されたのは少しばかり恥ずかしい思い出でもある。まあ気の済むまでどうぞ、鳴海はそう言って珈琲を手渡してくれたのではなかったか。ライドウちゃんたら意外と情熱的なのねえなんて言いながら。 しゅ、と聞き慣れた音がして橙色の光がぽつんと薄闇に浮かんだ。 「葉っぱが眠ってんのに花は夜が綺麗だってのは何のつもりなんだろうなぁ。ライドウちゃんこいつどういう字を当てるか知ってる?」 「いえ。ただ音としてネムノキ、というのは知っていますけど」 「歓びを合わすと書くんだよ。共寝の意味にも使うっていうけどどうかなあ。大陸にゃ機嫌の悪い恋人に飲ませていいに気分させるとかいう民話があったっけ。酒にいれてさ」 くくく、喉を鳴らした鳴海が合歓の木を見上げながら再度紫煙を燻らせた。 ゆるやかな風に閉じた葉が揺れ、同じように鳴海の髪とライドウの外套を揺らす。綿毛のようにやわらかそうな花は塊ごとほんの僅かに身を遊ばせていた。ヂィ、とどこかで正体のわからない何かの夜鳴きが聞こえる。 「なら俺も鳴海さんの酒に忍ばせましょう」 何気なく呟けば鳴海がちらりと視線を寄越した。唇の隙間から漏れる煙は途端に風に攫われてしまった。煙が生まれなくなったところで薄い唇が端を持ち上げる。人の悪い笑みはどちらかと言えば閨の鳴海を想像させてライドウは学帽の下で一度だけ瞬きをした。無表情だ寡黙だと言われる自分の、感情を容易く呼び起こししかも看破してしまうのは鳴海だからこの連想は筒抜けなのかもしれない。 「あれー、俺ってそんな不機嫌な時あった?」 「あまりないですけどね。不機嫌というよりはだらけている事の方が余程多いです」 「図星だと何も言えないねぇ」 僅かな距離を詰めて鳴海の横に立つ。夜鳴きが何処かで二度大きく聞こえ、それから聞こえなくなってしまった。 「機嫌が悪くなくても」 零す言葉が本音ならば照れなどない。 「俺は貴方がいい気分になるというなら何だってします」 言った途端にぎゅうと正面から抱き締められ、ライドウは肩口に甘えてくる鳴海の髪を眺めた。許されるなら抱き締め返したいとも思うけれど腕ごととらわれていれば自分の望みは叶えられない。 笑う鳴海の振動を触れる身体で直接知る。ひとしきり笑って気が済んだのか、鳴海はライドウを解放するとひょいと顎に指をかけて持ち上げた。あまり身長差があるわけではないけれど、無駄な矜持としてまだ追い抜けない事に少しばかり思うところがあるライドウにはそれなりに悔しい体勢だが間近にある顔に見惚れる。 何人の女性がこうやってこの男を見たのだろう、考えた辺りで鳴海が薄く笑った。 「いやいや、お前やっぱ最高だわ。オジサン、ライドウちゃんに恋人扱いしてもらえちゃってとってもうれしかったですよ」 顔が傾いて押し付けられる唇は、きっと笑んだ形のままに違いない。 自分のものもそうであればいい。 与えられるやわらかさを堪能しながら、ライドウは鳴海の服をそっと掴んだ。 --------------------------------------------------------- 20090709〜0904拍手御礼
ライドウちゃんは基本的に鳴海キラーと思われます。
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