しゅ、と布擦れの音。上質の生地が触れ合って生まれる囁き声は耳触り良く響き、しばらくぶりの出番を喜んで主の機嫌を取った。業者から戻され丁寧に仕舞われていたスーツと合わせた小物を一揃え、寝台の上に並べ終えたのを見計らったかのように現れた上司へ書生が溜息を吐いたのはほんの数分前だ。
 風呂から戻って来た鳴海は首にかけたタオルを放り投げると上機嫌で姿見の前に立った。ライドウが湿ったタオルを丁寧に畳んで側の椅子にかけ、シャツを広げて背後に控える。振り向きもせず腕を通す鳴海に不自由が無い様に調節して動けば、真白い布地はぴったりと主の身体を包んだ。
 全てを書生に任すのかと思えば鳴海はスラックスに足を通したりと好き勝手に動き、果てには煙草を手繰り寄せようとするので手のひらへ求めるものを置く。灰皿も近くへ寄せてやり、ライドウは寝台の上にいくつか並べていたタイのうちに気に入りのものを手に取った。上司に咎める様子はないからこの選択は正しいのだろう。
 しゅ、と独特の音が炎を生んで煙草に火を灯す。流石に顔を少し横へ向けた鳴海の、口の端が僅かに持ち上がっているのを視界に認めながらライドウはネクタイを首へと滑らせた。手早く結び終え、形を確認しているところで鼻先にあわく唇が落とされる。
「悪戯をすると手元が狂いますよ」
「お前にそれはないでしょ。真剣な顔してるからつい、な」
 ベストとジャケットを同じように身に付けさせると鳴海は短くなった煙草を灰皿に押し付け、寝台に腰掛けて優雅な仕草で足を組んだ。新たに銜えられた煙草に灯る熱を少しだけ見つめ、横へ跪いて長い腕へそっと指を沿わせる。ライドウの意のままに鳴海の腕は動き、上向いた手のひらの影でチェーン式のカフリンクスを留めた。もう片方に同じことを繰り返してこれも確認のため眺める。出来に満足して立ち上がる間際、ゆるく揃った指先へ音も無く口付ければ上司が喉を鳴らした。
「悪戯すると手元が狂うよ」
「火傷には気をつけて下さいね」
 言えば鳴海は笑いを音にして寝台から離れ、姿見の前へ再び立つとライドウにはわからない加減でちょいちょいと手直してそれから帽子を手に書生の正面へ立った。
「ど、いい男?」
 眺める上司は全て自分の選んだ物を身に付けている。勿論鳴海の私物であり新しいものは何も無いから普段と変わらないと言われてしまえばそれまでだが、どこか深い満足を覚えてライドウはひとつ頷いた。
 惚れた欲目を十分に理解して、その上で差し引いても。
「とてもお似合いで、格好良いです」
「どーも。涼しくなってきたから漸くこういうのが楽しめるな」
 夏の暑い盛りでも私室以外では決してベストすら脱がなかった上司もそれなりに辟易していたらしい。嬉しそうな声で鳴海は髪を整え帽子を載せ、姿見の中の己に作った笑顔を投げかけると気取った仕草でライドウに手を差し伸べた。
「じゃあ褒めてもらったことだし、行きますか」
「何処へですか」
 殆ど反射で目の前の手のひらへ自分のそれを載せ、ライドウが問えば片目を閉じた笑みに迎え入れられる。
「せっかくお洒落したんだから好きなことデェトしないと」
 あ、嫌だった?
 芝居がかった動作でうれしいことを言ってくれたくせに、いきなりわかりにくく不安げな顔で付け足された言葉に一瞬焦る。ここまで計算されてるのかもしれないといつも思うけれど、ライドウとしては自然な感情であれ計算であれ鳴海にそんな表情をさせるのは不本意だ。
「嫌なわけがない」
「ははは」
 ぐっと身体を引かれて気付けば鳴海の腕の中にいた。軽く抱き締められ想い人の感触を堪能する前に、腕はライドウから離れて主の側に帰っている。
「んじゃ行こう。ほらお前も仕度してきな」
「はい」
 仕度と言っても普段の制服に最低限の装備、外套を身に着ければ終わってしまうけれど。ああ言ってくれるならせめて顔でも洗って学帽に隠れる髪でも整えようか。では、と告げて退出してから思い付いたのはそんなことで、思わずくすりと笑みが零れる。

 扉越しの歌声を背に受け、ライドウは聞き慣れてしまった異国のフレーズをひとつだけ重ねて自室へと足を向けた。




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20090904〜1128拍手御礼

上司のお仕度をするライドウさんでした。
ほんとは服着る鳴海さんに御飯食べさせてたりするかも(遅刻しそうで)
とか思いましたが服が汚れることは鳴海さんがしそうにないから却下。