事務所の扉を開けた途端、漂った香りに雷堂はひとつまばたきした。足下で業斗が鼻先をひくつかせ、長い尾の先をぶんと振る。
「おう、お帰り」
「只今戻りました。……この匂いは」
「魚屋のご主人にたくさんもらっちゃった」
 台所へ続く扉からひょいと顔を出した鳴海がちいさく笑い、一度引っ込むと十分に水を吸わせているらしい桶を抱えて戻ってきた。中央のテーブルに置かれたそれを覗き込めば、中身は出汁や調味料を吸って色付くふっくら炊きあがった米、細かな野菜、そして旬の魚が真っ二つにされて二匹分程。
「手ェ洗って来な、ついでに看板返しとけ。鳴海探偵社の本日のお仕事は終了です」
 ひらひら手を振って台所へ戻る背中を見届ける。目付けが何か文句を言うかと思ったが黒猫はしきりに桶の中を探るばかりで、とりあえず雷堂は上司の言に従うべく洗面台に向かった。随分と訪れるのが早くなった夜の帳がもう筑土町を覆い出している。さらには音を立てない小雨まで降って来たからもう依頼人は現れないだろう。closeの札をかける雷堂には鳴海の穏やかな歌声が途切れ途切れに聞こえていた。
 事務所に戻ると、大雑把に骨取って混ぜて、という指示が与えられて桶の中身を木杓子で掻き混ぜる。したことのない体験に戸惑わないでも無かったが、肩に乗った業斗が時折口を挟んで来たのでそれなりの出来になった。
「すまん」
「俺は美味い飯が食いたいだけだ」
 目付けの言葉には感謝しか浮かばないが、言及したところで言葉を代えて否定されるのはわかっている。ありがとう、と心の中だけで呟いて雷堂は台所へ向かった。取った骨を持ってこいと鳴海に言われている。
「ありがとう」
「いや」
 大したことをしていないのに礼を言われたらどことなくむずがゆい。目付けもこんな感覚なのだろうかと考える雷堂の横で、鳴海が色付いた液体の鍋へ骨を放り込んで蓋をした。無精して焜炉の火に頭を突っ込まれた煙草が悲鳴のように煙を立ち上らせ、そのまま鳴海の唇に挟み込まれる。
 煙草を挟んだ指先が口元から離れ、包丁を手にすると側に置かれた大葉を重ねて細く刻んだ。淀みない手付きで生まれる一定のリズムは雷堂からすれば鮮やかとしか表現出来ないもので、続けて手に取られた生姜も繊維を立つ小気味いい感触を音にのせて見守る書生に伝えてくる。
「見事なものだ」
「そ?趣味と実益兼ねて、だけどな。褒められて悪い気はしない」
 銜え煙草に溜まった灰をここで漸く水場に落とし、鳴海が同じ指でことんと一度だけ蓋を押し上げた鍋の火を消す。
 骨を引き上げた鍋からよそった吸い物と刻まれた薬味の皿と、既に作っていたらしい小鉢がいくつか。伏せてある空の茶碗二つ、平皿ひとつ。盆にそれだけの量を載せても普段とかわらない足取りで食卓へ向かう背を僅かな間だけ眺め、雷堂は湯呑みと急須を持って鳴海の後を追った。
「我も料理を覚えた方が良いだろうか」
 零した言葉は何気ない本音だ。簡単なものなら作れなくはないが鳴海が準備出来ない時は殆ど食事どころの世話になっている。
「んー、お前が覚えたいと思うならやればいいんじゃないか。俺はどうせ食うなら美味いもんがいいから作るようになっただけで……この辺は美味い店多いけどな。買って済ませられるならそれも良し、俺の飯でよければそれも良し」
 どーしても田原屋のあの味が出せん、と言いながら鳴海の手は桶から秋刀魚御飯を茶碗に山と盛っている。業斗の分は平皿に広げ、雷堂が茶を用意して座ったところで手を合わせた。いただきます。重なったのは二人分の声と猫の声。
 吸い物の椀に口を付ければ、いつの間に放り込まれていたのか吸い口の柚子が香りを運ぶ。なんとなくその欠片を前歯で刻み、汁とともに飲み下してから雷堂は御飯に手をつけた。
「美味い」
『美味いな』
「そりゃどうも」
 向かいに座る鳴海を眺め咥内の味を堪能しながら雷堂は考えていた。
 美味いものを食べればひとは簡単にしあわせになる。教えてくれたこの幸福を鳴海に与えてやりたいが、幸福になるようなものを作れるだろうか、それに。
 鳴海の料理を食べる機会を、減らすことにつながってしまうだろうか。

 己と料理技術の関係に悩む少年の横で「若者はもっと食え」と鳴海が勝手におかわりをよそい、業斗はそれにちらりと視線を送ると満足げに口元を舌拭いした。




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20090904〜1128拍手御礼

ナルミさんの飯作りはいっそ趣味。
なんでこっちの人たちはいつも地味なんだろう…