開け放たれた扉から独特の香りが零れている。業斗は猫の鼻をひくりと動かすと台所へ足を向けた。見守るべき後進は急ぎの案件もない今、学業へ精を出していることだろう。
「あれ、どうしたんです業斗さん」
『何。酒の匂いが気になってな』
「その発言はなかなかの酒飲みですねぇ」
 くすくす笑う鳴海はそばにあった瓶のラベルを業斗へ向け、ラム酒ですよと呟くとまた手元のボォルと格闘し出した。ざかざかと乱雑に混ぜられる中身は粉と砂糖とバタァ、といったところか。
『蜜酒とは』
「原田なら割りと安く手に入れてくれます。なんなら味見します?」
 とろりと深い琥珀色が猪口に注がれて鳴海の傍らに控えていた。もう一つ、同じものには干し葡萄が沈められている。勧められるまま猪口の中身を一舐めし、業斗が尻尾をゆるりと振る。
『ほう、これはなかなか』
「洋酒がいけるなら部屋にそこそこありますよ。香り付けにと思って持って来たけど、飲んじゃうんだよなぁ…」
『お前だって大層な酒道楽だ』
「はは、違いない。じゃあ今度二人で酒盛りでもしますかね」
 言いながら鳴海も一口煽ると、酒の水分を含んで少しだけ膨らんだ干し葡萄をボォルに放り込み、まとまった生地を伸ばして切り分け始めた。迷いのない手つきが慣れていることだと教えてくれる。
 ちびりちびり。猫の舌で飲む猪口の中身が半分程になる頃には、鳴海があらかじめ温めておいたらしいオーブンに全てを放り込みボォルとまな板を洗い、業斗の横で葡萄が消えた猪口を傾けていた。
「昼から飲むのもいいもんです」
 甘やかな匂いがオーブンから漂い出す。台所の窓からは午後の風が入り込んでは室内を駆け、廊下へ抜けたり窓から戻ったりと匂いを撹拌させていた。
『小僧が居れば怒鳴られるな』
「でも業斗さんも飲んでりゃ怒られませんよ」
 それに猪口一杯程度、飲んだうちにも入らないでしょう。
 かかか、と業斗が笑う。猫の身体で器用なことだ、と思いながら鳴海は空いた猪口に酒を満たしてやった。まだ書生が帰ってくるには早い時間だ。
「ま、あれは両刀みたいだから酒も強くなりそうですけど。菓子にいれてもばくばく食ってますから」
『確かにな』
「私はあんまり菓子とか得意じゃないんですけどね。甘いものよりは酒がいい」
『食わないくせに作りはするんだな』
「手慰みですよ。作るのは嫌いじゃないし、楽しいから…食ってくれる奴もいることですし。何より使わないとオーブンが傷む。台所ってのはそういうもんでしょう」
 ふん、と鼻を鳴らした業斗に鳴海は苦笑一つ零し、頬の辺りを指先でかりかりと掻いた。確かに殆どの食事を書生に任せている上司の言葉ではないかもしれない。この目付けのことだから、もっと別の部分を指摘しているのかもしれないけれど。
「いい天気だなぁ…」
 煙草に火を付ける鳴海を一瞥し、業斗がなぉんと同意した。毛を撫ぜる手のひらを拒むこともない。
「あー、でもやっぱ日本酒が飲みたい…」
『摘みは魚にしてくれ』
「望むところです。あれも料理の腕は上がってきてるから、まっとうに飲める頃にゃ摘みも巧く作ってくれるでしょうよ」
 くくく、喉の奥を鳴らして鳴海は楽しみだと呟いた。
 業斗の尻尾がぺしりと鳴海の手首を打つ。猪口の中身を一息に呷り、鳴海は水場に凭れていた身体を起こすと小さく笑った。
『小僧なら芋の菓子を作りかねんがな』
「確かに!」
 預かり子が成人するまでまだ幾年かある。そもそもいつまで此処にいるのかなど鳴海も業斗も知らないことだ。決定するのはヤタガラスの意思ひとつ。それを二人とも十分にわかっている。
「…それでも、楽しみだ」
 菓子が焼き上がったのか、オーブンに向かう鳴海の背中を業斗がじっと見る。長身で細い身体はどこにも哀しみなど滲ませていない。

 なぁあん。
 猫の鳴き声に私もですよ、と振り向かない鳴海が応えた。




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20090509〜0606拍手御礼

業斗と鳴海さんそして書生不在。
目付けは監視に甘いようです。