「さいあくだ」
 べったりと机に懐いた鳴海の頭をやわらかな肉球が容赦なく踏んだ。猫の体重とはいえ狭い前足の面積に集まれば結構痛い。
「ゴウトちゃあん、痛いんですけど」
 鳴海の文句に今度は僅かながら爪が出た。痛い痛い痛い、頭皮へと遠慮なく食い込む刃物に鳴海が涙目で騒ぎ出す。ゴウトは髭をぴくりと振るわせてから身体ごと鳴海から離れた。
「ひ、酷い…。あんまり苛めないでよ」
 鳴海にゴウトの言葉はわからないがゴウトは鳴海の言葉を正しく理解している。デビルサマナーではないからしょうがないことでも、さみしいなあと鳴海は手を伸ばしてゴウトの尻尾を軽く引いた。なぅ、と小さな文句が零れる。じっと見つめる緑の瞳は吸い込まれそうに深い。
「竜宮にでも行くかな…ったい痛い痛い痛いイタイ、冗談だってば」
 ツケは相変わらず溜まっているし家賃も滞納している。学舎へ向かう書生が次の依頼料が入るまで夜遊びしないで下さいね、と太い釘を刺してきたのはほんの数時間前だ。
 漸く身体を起こした鳴海は煙草に火を付けると天井を仰いだ。
「別にたいしたことじゃない、か」
 なぉんと鳴き声が響き、どうやら相槌らしいそれに苦笑を口元に浮かべる。猫は好きだからついつい構ってしまうものの、なかなか愛でさせてくれない黒猫はこれでいて人の機微に聡い。濡れた鼻先を指の背でつつき、鳴海はぷかりと輪になった煙を吐いた。何個か続けて作ることもできるそれを、書生が物珍しそうに眺めていたのはもう随分前のことのような気がする。実際には其れ程時を遡った出来事ではない。
「うん、たいしたことじゃないんだけどねぇ。夢見が悪かっただけなんで。…悪かったと言えば失礼かもしれないけど」
 久々でなんか吃驚しただけなんだがなァ。
 猫は嫌そうに鳴海の指を避けると、そのまま机の上に身体を横たえた。組むこともなく放り出した四肢の横で尻尾がぱしぱしと板を叩く。
「あらご機嫌だこと」
 動く尾に指先をひっかけることはどうやら許されたようで、肌を刺激する黒い毛を何度も味わいながら煙草を呑んだ。
 夢を見ること自体は珍しくない。書生が探偵社へ来てからはだらだら惰眠を貪る機会も増え、浅い眠りは様々な幻想や過去を鳴海へ見せた。自らの悲鳴で覚醒するような悪夢だってたまには見る。昔では考えられないことだ。
「俺も丸くなったもんだねえ」
 呟きにゴウトの尻尾が指先から離れ、何か気に障ったんだろうなとこれ以上追わないでおく。丸過ぎだと言われているのか、なら働けと言われているのか。なんとなくの感情は察することができても、言葉が交わせないから想像でしかない。うにゃうにゃと鳴く黒猫とそれに頷く書生の姿を思い出し、あれは和むな、と薄く笑った。
「暇だねー」
 ぱし、と逃げたはずの尾が鳴海の腕を打った。
 くつくつ喉を鳴らして目を閉じ、夢を反芻する。どんな悪夢を見ても、どんな過去を振り返っても、決して夢には出てこなかった人が唐突に出てきた。変わらない、わかりにくい笑みと厚い手のひら。忘れていることの方が多いけれど印象づいていることは優秀な頭が捨て去ってくれないらしい。
 ご無沙汰しております。こんにちは。
 胸の内だけで瞼の裏に語りかけ、ゆっくり目を開けば変わらない探偵社の事務所が広がっている。飲みかけの珈琲と散らかった机、書類を下敷きに寝そべっている黒い猫。来客用テーブルを挟んだ向かいにあるべき姿は当たり前のことだが今はない。学帽に学生服、黒尽くめで腕を組む書生がいない。それが景色に足りないものがある、という認識になってどれぐらいが経つんだろう。書生が来るまでは当たり前だったこの光景は自分で設えたものだったのだが。
「そうか。……昔のことなんだよな」
 振り返る。今がないとできないことだ。
「うーん、俺も随分ライドウちゃんによっかかっちまってるなァ」
 苦笑ひとつと煙草を一口。

 自嘲混じりに吐き出せば、紫煙に毛並みを逆立てたられた黒猫がナァと鳴いた。

 



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20090509〜0606拍手御礼

ゴウトと鳴海さんそして書生不在。
だらだら、時間は全てに等しく過ぎていくものだとか。