「いよっ」
 軽い掛け声と共にきいろいかたまりが宙を舞い、火の通った卵は形のうつくしいオムレツとなって白い皿の上に鎮座ましました。
『見事なもんだ』
「これはこれは、お褒めに与り光栄至極。……業斗も食べる?」
 言いながら鳴海の腕は既に皿へと向かい、黄色をまっぷたつにして違う皿に取り分けている。悪いな、と業斗は机の定位置へ座ると立ち上る湯気にひくひく鼻先を動かした。
「冷まそうか」
『手を煩わせるまでもない。ありがたく頂こう』
 書生が学校に行っている間は鳴海探偵社は当然一人と一匹の空間になる。若者の食欲に応えるものより大分簡単な昼食になるのはいつものことだ。値段はさておき。
「もう今日はでかけないの」
『あれが帰ってくるまではな。お前こそどうなんだ』
「んー…いい天気だし布団でも干すかなと思ったけど。そろそろ大家さんが来そうだからちょっと逃げとくかな」
 言って鳴海はへらりと笑った。小さなパンひとつと半分のオムレツだけで昼食を終えた男は満足げに紫煙を燻らせている。
『あまり逃げ回るな。大家殿はお前が居ないとあれに文句を言うからな、当然のこととはいえ哀れになる』
「ん、すまないとは思ってるよ。でもこればっかりはね」
 ひらひらと手を振りながら苦笑して、鳴海は空になった業斗の皿を自らのそれに重ねた。かちゃりと静かな部屋に硬質な音が響く。
『あれに言いくるめるだけの技量もないだろう』
「俺が悪いって二人で盛り上がればいいのにね」
『それができるならあれに苦労はない』
 はは、と軽い笑い声が猫の溜息を攫い、くわえ煙草のまま台所へと進んだ。黒猫も静かに後を追う。しばらくは水音だけが台所を満たし、鳴海が短くなった煙草をそのまま濡らして屑篭へ放り込んだところで業斗へ視線を落とした。
「晩ご飯さ。鍋にハヤシ作ってあるから食べるようにって、雷堂に言ってもらえる?」
 田原屋のにはかなわないけど結構自信作なんだ、今回の。あそこのご主人は企業秘密だからってレシピ教えてくれないからちっとも完成しないけど。笑う鳴海に気負いはない。
 窓からの風が急に強くなり、一人と一匹に遠慮なくぶつかる。乱れた髪を掻き上げた手で鳴海は細い眼鏡を外し、弦を持ってくるりと回した。
『承知した』
「ありがとう」
 懐から取り出したケースに眼鏡を仕舞う鳴海をじっと見つめ、業斗は淡々と応じた。午睡の日差しはぬくぬくと台所を温めている。くあ、とひとつ零した欠伸につられてか鳴海も大きく口を開けた。
「んじゃ、お出かけしようかな」
『…俺は昼寝でもするか。あれの機嫌をとれるものを何か買って来いよ、愚痴を聞かされる身にもなってくれ』
「了解」
 くすくす笑いながら鳴海は業斗の毛並みを撫ぜ、一度手のひらを弾ませる。昼寝の定位置になっている事務所のソファへ向かい歩き出した業斗はドアの前でくるりと振り返った。
『鳴海』
「ん?業斗には何か干物でも買ってくるから」
『気遣いには感謝する。…あれを喜ばせるならその顔を見せてやれ、タヱの前で所長の素顔を見たことがないと拗ねてたぞ」
「はは」
 笑顔を零す頃には業斗の姿は見えず、気を使わせたかな、と鳴海も廊下へ出た。お出かけするなら仕度を整えなければ。
「素顔、ね」
 胸に手を当てればケースの中で眼鏡がことりと音を立てた。喉を鳴らしながら自室に入れば、電気を付けなくても午後の部屋は明るい。書生の拗ねる姿というのは見て見たかったななどと思いながらクローゼットを開ける。傷のせいで少し強面ではあるが、鳴海探偵社の書生は大層な美丈夫だ。若さか生来のものか、まっすぐな気性は鳴海には好ましい。そんな彼が拗ねるというのはなんだかかわいらしいものの気がするのだ。
 目当ての服を着込み、手早く準備を整えると姿見の前に立つ。
「ん」
 抜かりはない。できれば二人と一匹で夕食をとりたいものだ。
「なあ、鳴海所長さん」
 鏡の中にいる人物へ一声かける。
 男は迷いのない足取りで銀楼閣を後にした。

 干物と菓子を買ってこなければ、という誓いを一歩目で思考の裏へ追いやりながら。
 



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20090509〜0606拍手御礼

業斗と鳴海さんそして書生不在。
見送ってくれなくてありがとう。