「雷堂って童貞?そいえば」

 今日も今日とて閑古鳥が鳴く鳴海探偵社の昼下がり、手ずからティタイムの支度を整えた鳴海が唐突に零した言葉で雷堂は盛大にミルクティを吹いた。
「あー、ひどいなあ。せっかく砂糖いっぱい入れたげたのに」
 確かに甘味は雷堂が思わず口の端を引き上げたくなるほど気に入る加減で、今も噎せる雷堂の背を撫ぜる鳴海の手はやさしい。細くしろい指先が台拭きを掴み、汚れを拭き取る様を視界の端に認めながら雷堂は大きく咳をした。喉に引っかかったミルクティを無理矢理に吹き飛ばしても、動揺で口から零れるのは言葉の切れ端ばかりだ。
「な、な」
「大丈夫?これ飲んでいいよ」
 言って与えられたのは無精して片付けなかった牛乳で、どうにか一口飲み込んで自らを落ち着かせる。悪魔と退治する時には表情のひとつさえ動かさずに済むのにどうしてこのひとは、と涙目を自覚しないまま鳴海を睨みつけた。
「だから貴様は…!もう少し言葉を控えようとは思わんのか仮にも女子だろう…!」
「仮にもってひどいなあ、鳴海サン立派なオンナノコよ?まあ確かに子って言うよりおばちゃんなんだけどー。あーあー、でもなんか答え聞かなくてもわかった気がする」
 雷堂の剣幕などものともせず、鳴海は優雅な仕草で珈琲を飲んでにやりと笑った。意地の悪い笑みを浮かべるのもいつものことだが、やけに挑戦的にも見える。
「邪推するな、我だって、その、そういう経験はある」
「へえ?」
 答えに鳴海があまりにも素直に驚いたので、雷堂はなんとなく傷ついているのを自覚した。嘘だとけらけら笑いからかってくると思っていたのに、この上司はよくわからないところでいつも期待を裏切ってくれる。
「まあ雷堂だって男だもんね、そりゃそうか」
 ふふ、と笑う視線のやわらかさに耐えられなくなって雷堂は口早に言葉を続けた。雷堂の言ったことは事実だが、おそらく鳴海が考えていることとは異なっている。責められているわけでもないし誤解を解く必要も然程ないが、妙な罪悪感すら覚えて鳴海を見た。
「いや。我の場合は里の指示だった。雷堂の名を継ぐものが女も知らないようでは困ると」
「何それ。馬鹿らしい、お前ぐらいの歳なら童貞も珍しくないだろう」
「いや」
 雷堂の言葉に少しだけ目を見開いて、鳴海は眉を寄せて茶菓子を口に放り込んだ。バタァの香りが漂うそれはたまに鳴海探偵社の茶会に登場するが、何処で売っているものなのか雷堂は知らない。富士子パーラーの商品ではないようだから、おそらくは雷堂の知らない銀座の行きつけででも求めているのだろう。やさしい味は少しだけ甘さに不満があるものの、雷堂も好むものだ。
「悪魔の中には色欲でこちらを魅了する術を使うものがいる。精神の強さで抗うこともできるが、未知の誘惑に負けることが無いようにあらゆる手段は為しておくべきだ、と」
「……なるほどねえ」
 あーでもなあ、と呟きながら鳴海は天井を仰ぎ、なにやら溜息を零したようだった。
「まあそりゃ、うん、男はね、きもちいいだろうけどねぇ。もったいないなぁ」
「所長?」
「あー。ごめんこっちの勝手な感想だよ、気にすんな」
 くしゃくしゃと自らの癖毛を掻き乱して鳴海は何故か困ったように笑った。鳴海はよく眉尻を下げて笑う。よくある表情だとしても今見ているそれは何かしら負の感情を抱えているように見え、雷堂はじっと笑い顔を見た。顔の傷のせいか、何かを見つめれば怖いと評されることも多いが、雷堂自身に相手を脅かすつもりは全くない。そして初対面から怖がらなかったのもまた鳴海だった。
「なんて言えばいいかな。うん、そうだなあ…じゃあ雷堂は想いを交わした人と抱き合ったことはないってことか」
「ああ」
 普段ならばその直接的な言葉には途端に照れてしまうはずなのに、なぜかすんなりと肯定の言葉が出て雷堂は内心で驚いた。色恋の話が苦手なのは何よりも雷堂自身がわかっていることなのだ。
「ま、確かに経験しとく方がいいのかねえ?男の矜持もあるだろうし、私にはわかんないけどさ。でもやっぱそういう相手は想い人の方がいいよ。身体のいろいろはまた違うだろうけど、何よりこころが違う」
 言って鳴海はまだ茶菓子が積まれた皿を雷堂の側へ押しやり、煙草に火を付けると美味そうに一服した。雷堂にはもう鳴海自身のものとして認識されている独特の香りが室内に溶けていく。
「しあわせに、なるよ」
「……、」
 何かを言おうとしたのに、鳴海を見て雷堂は言おうとしたことを忘れた。普段から笑っているばかりの上司の、見たこともない穏やかな笑みはこころの何処かを刺激したようで、よくわからない感情の細波をどうすることもできずとりあえず口を噤む。そこから会話を続けることにも何故だか気が引けて、完食する権限を与えられた菓子を黙々と平らげた。鳴海自身甘いものは嫌いではないようだが、いつも口にする数は少ない。
 しばらくの沈黙は然程重たいものではなく珍しいものでもないはずだ。それでもこころに受けた刺激がどうにもおさまり悪く、甘味を堪能しながら漸く雷堂は疑問が自らのうちに燻っているのだと気づいた。ならばそれを解消すればいいのだ、と口を開く。
「所長」
「んー?」
「ならば所長にはそういった経験があるのか」
 雷堂の言葉に鳴海はぱちりとまばたきすると少しだけ目を見張った。次いで眼鏡のレンズ越しでも大きいとわかる瞳がふっと細められる。

「あるよ」

 いや自覚してないと思うけど結構破廉恥な質問よそれ、っていうか雷堂ちゃん私が三十路の女ってこと忘れてないこれでもいろいろやって生きてきてんのよぐーたら働かない行かず後家には間違いないんだけどさあそれぐらいのことは一応ね…
 鳴海の照れるでもない言葉は滔々と続いていたが雷堂の頭には留まることなく音として認識されるだけだった。予想通りのものが返されただけだというのに、こころの細波はおさまるよりももっと酷くなって雷堂の感情を掻き回す。
 当たり前だ。十五も年上の女性に何を失礼なことを。
 そう考えているのも確かに雷堂自身のはずなのに、笑みに満たない表情と単なる肯定の言葉がいつまでも身体の内側で響き渡って、遮るように雷堂は茶菓子をもうひとつ口に含む。

 好むものであるはずの菓子は何故かひとつも甘くなかった。
 




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20090401

無自覚雷堂さんとセクハラ所長。我が家の当代は素人DTです(…)