「……なるほど。天津金木は還る道理になっているんだな」
 淡々と言い放った書生は僅かに口の端を持ち上げて雷堂を真っ直ぐに見た。足下に黒猫の姿は無い。多聞天の玉砂利を突ついていた鳩が何に感づいたのか飛び立って姿を消してしまった。ばさり、どこかで聞こえる羽音。
「ま、元気そうでなによりだ。今度は俺があんたの力になろう。葛葉雷堂」
 以前と違う笑い方をしたライドウはそのままくるりと雷堂へ背を向け、迷い無い足取りで筑土町の駅へ向かってしまった。




 ゴトン、いつかの様に秘術を使うため異界筑土町への電車に揺られる中、遅くなったがと前置いて手短かに経緯を伝えればライドウはそうか、と呟いた。ライドウの要望で黒猫は彼の外套の上で丸くなっている。
 名前は伏せたが宗像を追って和電イ号基へ侵入したこと。
 ダークサマナーの術を受け時空を超えたこと。
 当たり障り無いものを選んで告げた後のライドウはじっと向かいの窓を見つめている。真っ直ぐ伸びた背も深く澄んだ瞳も、見た目は以前と変わらないのにどこか漂う違和感は何なのか。
「……何だ」
「いや。行きの車内には乗客の姿が見えなかったと思ってな」
「ああ」
 町から離れる終着駅へ向かう人はいつも少ないのだが、あの時分にひとりもいないのは珍しいのではないか。考えていたのとは別の疑問を口にしてみればライドウが相槌を打って瞼を下ろした。
「こちらであった事件の影響だ。筑土町はほぼ元通りなんだが」
 それ以上紡がれなかった言葉を追求するつもりも無い。そうか、と同じ言葉を返して雷堂も窓を見た。町を離れるとすぐに広がる田園風景は変わらないように見えたし、異界とはいえ今見ている町への景色にも違いは見つけられない。自分の世界でライドウを送った時と何ら変わらないのだ。
 はやくあいたい。
 耳に甦った声はその時のライドウが零したもので、今の自分は確かに同じ気持ちを持っているのに何故か口にすることは躊躇われた。早く会いたい。誰よりも鳴海に。

 告白したその日は気を失うように眠ってしまい、意識を取り戻したのは翌朝だった。傷を癒す傍らで必要と思われる仲魔の確保と育成に時間を取り、道具を補充して出立の旨を伝えると鳴海はわかった、と笑って雷堂を送り出した。拙い告白が鳴海の中でどうなったのか雷堂には想像も付かない。普段通りに対処されてしまっているし今から向かう任務を思えば問いつめることも出来ず、行って参りますとだけ告げて銀楼閣を後にした。その時ふと振り返ったのは思いついてやったことではない。
 それでも、見上げた三階の窓にはこちらを見下ろす鳴海の姿があった。雷堂の視線に気づいてひらひらと手を振るのはあまりにも見慣れた平和な光景で。そしてただ単純に、愛しい、そう思った。
 守る。
 口をついて出た言葉は多分どうしようもないほど本音だ。聞かれたとは思えないが零してしまった言葉にほんの少し照れる。学帽の鍔を引いて顔を隠すことに振られる手への返答を兼ね、あの日の雷堂は駅へと向かった。

 帝都崩壊と宗像は口にした。あの男と鳴海の間に何があったのか雷堂には知る術もないが、帝都守護の任に付く雷堂の討つべき相手が宗像だ、ということははっきりした。宗像についてはそれ以上考えまいとしている。
「……」
 鳴海は無事だろうか。只でさえ和電イ号基内では先を進むのに時間を取られていたのに、こうして帰還が遅れているから心配をかけているかもしれない。笑いながら、それでもどこか不安定な近頃の鳴海に危険が及んでいないといいのだが。
 会いたい会いたいと思う中、僅かに「会いたくない」が混ざるのは想いを告げた片恋の身の臆病さだ。ただそれを凌駕する程の「会いたい」があるだけで。
 仔細は知らないが、彼も自らの上司に懸想しているというならこの強い衝動を以前のライドウも抱えていたのか。
 目付けの窘めひとつ。たったそれだけで、例え表面だけでもしっかりと冷静さを取り戻した書生を思い返し、本人に視線をやれば何時からなのか真っ黒な瞳が雷堂を見据えていた。感じる力は雷堂が知る他の誰よりも強い。そしてその瞳がふっと緩む。
「あんたは何か変わったな」
 思っていたことが傷のない自分の顔をした書生の口から零れた。ライドウの膝で業斗が一度長い尾を振る。ギィィ、とカーブに電車が抗議の声をあげた。
「……それは我の台詞だ。以前とは違うように思える」
「俺が?」
 頷けば、ライドウは視線を上に逃がして少し考え込んだようだった。唇から零れる言葉は相変わらず落ち着いたものに聞こえる。
「ま。変わるのは当然なことなんだろう、時間が経ってるしな。何かがあればなかった頃と違うのはあたりまえだ」
「そうだな」
「俺には……あんたが落ち着いたように思える。いやちょっと違うか。吹っ切れたというか」
 ぱしぱしと黒い尾の先が少し離れた雷堂の腿を叩き、どうかしましたか業斗童子、とライドウが艶やかな毛並みを撫ぜた。黒猫はにゃあとだけ鳴いてまた丸くなってしまう。しばらく無言で指先を遊ばせていたライドウは視線を猫に向けたままなんでもないことのように呟いた。
「そっちの鳴海さんは元気か」
 なるみ。その音が届いた一瞬、身体が硬直してしまったのをライドウが見逃すはずもなかった。普段なら例え鳴海の前だろうが業斗の前だろうが押さえ込んでしまえる揺れが出てしまったのは、やはりライドウの前だからだろうか。同じだけど異なる自分の前というのは変な心地だ。このおさまりの悪さはきっと、甘えであり恐れでもある。自分であるならばこの感情を正しく理解しているはずだろうという甘えと、望んでいなくても心の裡を暴かれているかもしれない恐れだ。
「……」
 じっと見つめてくるライドウの視線に耐えきれず、逆を向いて学帽の鍔を強く引く。布一枚などものともせずに刺さるその強さに気づかないふりをしてこっそり息を吐いた。
「押し倒して殴られでもしたのか」
「そんなことできるわけないだろうが貴様は馬鹿か!」
 とんでもない言葉に思わず声が大きくなる。勢い込んでライドウを見たものだから頭の動きに従って学帽の紐が翻り、側面をぱしりと打つ感覚があった。雷堂の目の前では大声に耳を塞ぐライドウが俯き、どう思ったのか肩を小刻みに振るわせていた。騒ぐな小僧、と業斗が翡翠の目を煩わし気に細める。
「あんたわかりやすいな」
「その顔で所長のようなことを言うな」
 染まった頬を自覚しながら力なく呟けば、堪えきれないとばかりにライドウが喉を鳴らした。自分と同じ顔でそんなこと。違和感の正体に漸く気づき、雷堂はもう一度学帽の鍔を下げた。すこしばかり湧いたうらやましいという感情を晒したくない。
「っく、いや、悪かった。あんたはそんなことしないと思ってるけど」
『同感だ。できんという方が正しいがな』
「業斗……」
 目付けの言葉に再度笑いの発作を起こしたらしいライドウが落ち着くまでとりあえず放って置いた。ギギギ、車内に響く音まで笑い声のようだ。はあ、と最後に大きく息の塊を吐くのを横目で眺め、まだ頬が熱いまま雷堂は口早に言葉を落とした。
「好きだと言った」
「え」
 目を閉じる。視界の隅にライドウが映ることさえ耐えられなかった。
「所長に好きだと言っただけだ。返答はないしおそらくなかったことにされているだろうしこの状況では問いつめることも出来ん何より迷惑はかけたくない、……恐ろしいと思う気持ちもある。未熟者だと笑うなら笑え」
「……」
 ガタン、大きな揺れと共に少しずつ速度が落ちていく。笑えと言えば今度こそ遠慮なく笑われると思っていたのに、待ってもライドウの声は聞こえなかった。僅かな気配の揺れを感じて横を見れば、ライドウの膝から降り立った業斗が車両を出て行くところだった。まだ早いだろうという意思を込めて黒猫を見つめても長い尾が一度振られただけだ。放っておいてくれということなのだろう。
「未熟者、か。それはお互い様だろう。いや」
 声に引き摺られてライドウを見れば、ライドウの視線も業斗を追っていたらしく雷堂のそれと絡むことはなかった。立ち上がる書生の外套の裾が揺れて雷堂を少し掠める。見上げた先の整った顔立ちは無表情で、それでも僅かに口の端が上がったように見えた。
「言葉にしなければ伝わらない。それも当たり前だ」
 独白めいた声と続いた言葉。
 ──あんたはすごいな。
 今も傍に居るだけで知れる程、自分よりも格段上のデビルサマナーが、当代葛葉ライドウが何を言う。途端に揺れ動く感情のまま雷堂は後を追って駅に降り立ち丑込め返り橋に向かった。その間ライドウは一度も振り向かず、術を発動させるため橋の筑土町側へ立った段階で漸く雷堂に向き合う。ちらりと業斗に視線を遣って目を細めたライドウはばさりと外套を後ろへ流した。
「急いでいるんだろう。始めるぞ」
 作法を簡略化し立ったままで天津金木を発動させる姿に雷堂は二重の意味で絶句した。
 まただ。またこのサマナーは力量の差を見せつけてくれる。同じ存在とはいえ時の流れに差があるのだと言われても納得などできるものか。準えたわけではないが今は胸の封魔管に白銀の魔獣もいるというのに、追い着くことはできないのか。それに。
 戦闘時と同じく流した外套、露になった胸元にあるはずの──管がない。白いホルダーまでも取り除かれたその部分は黒い学生服の布地が認められるだけだった。退魔刀も銃も銃弾も、他に足りないものは何もないのに。いや、もうひとつ。
 思考を裂いて聞こえた声はライドウのものだ。既に時空を超える力は術者の手を離れている。

「感謝する。葛葉雷堂」

 世話になったと言う雷堂の言葉はちゃんと届いただろうか。何よりも自らが告げなければいけないはずの言葉はまたしても違う時空の己から先に零れた。黒い手に引き摺り込まれる瞬間、見えたライドウの顔は笑っていた。ほとんど同じ顔だというのに、鏡で毎日のように見ている顔のはずなのに、信じられない程屈託なく笑った当代ライドウへの礼は掠れてしまった気がする。あんな顔が出来るのなら雷堂に一瞬過った懸念など無駄なのかもしれない。





 あんたはすごいな。
 己の持つ何がライドウにそう言わせたのかは見当もつかない。
 それは能力とは別のところで、彼と雷堂は同じ存在であっても異なる人間だという証なのだろうか。





『……戻ったな。しかし……小僧』
「ああ」
 瞼を持ち上げて目に入った町並みに眉を寄せ、雷堂は目付けの省いた言葉に頷いた。天津金木を用いたからにはここは雷堂の知る筑土町のはずだが、この静けさはどうだ。駅へ続く道ということもあって丑込め返り橋周辺はいつもそれなりの人通りのはずだが、今はまばらに幾人かの姿を見つけることしか出来なかった。
『探偵社に戻るしかないな。俺達が居ない間に何があったというんだ』
 珍しく雷堂の前を走る黒猫の後を追う。渦巻く脳内の真ん中にあるのは鳴海に会わねばというただそれだけの想いだが、先程のライドウの言葉がひっかかっているのも事実だった。
『腑抜けた面を晒すな』
「すまん」
 普段なら人の間を縫わなければ通れない小道を今は全力で駆けることが出来る。気味の悪さを感じて頭を切り替えようとする雷堂へ、カカ、と笑って業斗が一鳴き。

『何、時にはお前みたいな若造が一番おそろしいというだけの話だ』

 振り向いて猫の口を器用に持ち上げ、意地悪い貌を作った目付けはすぐさま表情を戻して速度を上げた。





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20090731 0805改訂

ライ鳴のが目立った隙間話でした。業斗さんは危機の中でも遊びたがる。