雷堂へ。

  おかえり。怪我はないか。お前のことだから大丈夫って言うんだろ。
  これを読んでるなら元気なんだと勝手に思っとく。


 想い人の置き手紙は今にも声が聞こえてくるような文章で始まっていたけれど、内容を頭に詰め込もうとしても中々入ってくれない。先に読み終えたらしい業斗に何度か呼ばれ、雷堂はどうにか最後の署名まで目を通して手紙を手放した。ひら、と幾度か身を翻して白い紙は整頓された机に落ちる。その端に在る灰皿は吸い殻もなく綺麗に洗われて光を反射させていた。
「……」
 何も言えず玄関に溜まっていた新聞の束を机に積み上げる。雷堂の体感では一日強程だった時間の流れは、時空を超えている間にこの世界でもっと先へ進んでいたようだ。
『全部私が片を付ける、良い子で待っとけ、か。対悪魔の術を殆ど持たんと言ってたな。宗像を追うなら悪魔との戦闘は避けられんだろうに』
「業斗」
『只人が馬鹿なことを……見聞き出来るとはいえ、あの女は死ぬ気か』
「業斗!」
 所長机から来客用のテーブルまで身軽に飛び移ると、業斗は雷堂を振り返った。銀楼閣に入ってから今まで無言だった後進に翡翠の目を向けて長い尾を揺らす。
『どうする』
「……、」
 雷堂は乱暴に手紙を掴んで懐へ仕舞い込み、くるりと所長席に背を向けた。まっすぐな背がそのまま足早に扉へ向かう。
「愚問だ」
 翻る外套に目を細め、業斗が猫の声でにゃあと鳴いた。


 馴染みである竜宮の女将。女所長を慕っているらしい帝都新報の女流記者。田原屋、釘善、新世界、金王屋、行きつけの主人達。そして深川の任侠。
 ここ数日の間に鳴海を見たと口にしたのは最後の男だけだ。
「ばったり会うたから立ち話はしたんやけどな、何処行くかなんて聞いてへんで。あの女いっつもふらふらしとるやろ」
「そう、ですか」
 言葉を続けることが出来ず学帽の鍔を引いた雷堂へ佐竹はちらりと視線を寄越すと、煙草を取り出して口に銜えた。シュ、と燐寸の音がして独特の香りが漂う。ああ久々の感覚だ、と雷堂は意識の片隅で考えた。音も香りも身近にあったものなのに。
「暫く酒たかりに来よらんかったしなぁ。こないだ深川へ顔出したんも久々やったで。あれは葛葉ぁがかわゆうてしゃあないんやろ」
「は」
「雷堂は良い子や、てえらいのろけられてなあ」
 言って佐竹はにやりと笑い、紫煙を上に吐いた。
「……」
 良い子で待っとけ。置き手紙に綴られた最後の文章が頭を過り、雷堂は俯く。そうやって良い子という言葉で褒められる事は少なくなかったし口にする度鳴海も嬉しそうだった。でも今はそんな評価などいらない。良く出来た書生、有能な部下。認められたようでいつも嬉しかった評価は認められない、そして足りない。
「立ち話かて似たようなもんやったしな。……景気の悪い面しとんなぁ」
 大きな手のひらで勢いよく背中を打たれてびりびりと衝撃が全身に回り、痛みに漸く自分が今此処に立っているのだという実感を得た。なう、と業斗が佐竹に向かって一声鳴く。
「なんやお前も居ったんか。悪いけど今日は何も持っとらんわ」
 わざわざしゃがみ込んで黒猫の頭を撫ぜた佐竹に、業斗がごろごろ喉を鳴らした。只の猫のような姿に雷堂が目をやれば、ちらりと覗いた翡翠色がまた瞼の向こうに隠れてしまう。佐竹の口ぶりからすると雷堂の知らないところで任侠と黒猫には繋がりがあるのだろう。
 佐竹が大黒湯脇の長椅子に座って煙草の灰を落とす。僅かに灰が生まれる度落とす仕草をなんとなく眺めているうちに雷堂はよくわからない違和感を覚え、しばらく考えてから答えを見つけた。雷堂に一番身近な煙草はもちろん鳴海が吸うものだが、鳴海はいつも危ないと注意したくなる程灰を溜めてから漸く灰皿へ向ける。良さなど雷堂には全くわからないが愛用する人間が多い嗜好品の、灰を落とすという行為ひとつとっても個人差はあるのだなとぼんやり思った。
 消えた鳴海は何処かで紫煙を燻らせているのだろうか。そう出来る程度には安全なところに居て欲しいと願い、同じ心で願いは適わないだろうと思ってしまうのがただ悲しい。
「そう言えば、随分とあれをなかしとるらしいなぁ」
「は」
 唐突な言葉に思わず間抜けな声が漏れる。
「雷堂ちゃんに泣かされっ放しで年寄りの身が持たんて言うとったで。流石、色男は違うのォ」
 にやついた笑みを眺め、言われた事を噛み砕き、それから雷堂は薄く頬を染めた。学帽の鍔を引けば少しぐらいは赤みを隠してくれているはずだ。佐竹に誘導されて生まれた、夜には慣れた想像を頭の中から無理矢理追い出し、鍔越しに任侠を睨みつける。
「……我の知らないところでまでお二人でからかわないで頂きたい。確かに目の前で所長が涙を見せた事もあるが、笑い涙だ」
 何が面白いのか理解出来んがどうも笑わせてしまうらしいのだ。
 続けた言葉に我ながら情けなくなり、雷堂は一度瞼を下ろした。見れるものなら雷堂だって想い人の涙を見てみたいと思うし、見せてもいいと思われる男でありたい。あの告白の夜からずっと、取り繕うぐらいなら泣いてしまえと思い続けている。鳴海自身が雷堂に泣かされていると言ったところで雷堂からすれば一度も見ていないと同じ事だ。時には涙が出るまで笑われることが正直面白くなくても、少しでも鳴海の救いになっていればそれでいいだなんて殊勝なことまで頭を過る。我ながらどうしようもない。
「まあな。でもああいう女をそこまで動かすんはたぶん葛葉が思っとるよりえらいことなんやで」
 聞こえた声の不自然なまでの穏やかさに視界を取り戻せば、佐竹は雷堂を見るでもなく長屋へ続く道に顔を向けていた。ゆらり、風に掃かれる紫煙。
「せや。葛葉、これ見てみぃ」
 ふと思い出したかのように懐を探り出す佐竹に呼ばれ、素直に近付く。手招かれ肉の厚い手のひらへ転がる包みへ顔を寄せれば、自然佐竹に近くなった耳へひそかな声が滑り込んで来た。あれが居らんのと関係あるかは知らんで、と前置いて。
 「鳴海」を嗅ぎ回っとる阿呆がおる。
 手のひらの包みを無骨な指が意外な程の器用さで開くと、中から現れたのは意匠が凝らされたかわいらしい砂糖菓子だった。
「佐竹さん」
「晴海町でないと手に入らんらしいな。弟らの中にも甘味狂いがおるけど、シマん中やのに見逃しとったってえらい凹んどったわ。目の色変えて手に入れて来よった」
「そうか。我も足を向けてみよう」
「おう」
 軽い相槌の後、佐竹は包み紙の上に鎮座する菓子を摘むと雷堂へひょいと投げた。反射で受け取って佐竹を見ればまたにやにや笑っている。
「むかぁしな、そんなんで美味いのが手に入ったら雷堂にやってくれて頼まれとるんや。甘いもんをよう食べん自分には善し悪しがわからん言うて」
 昔、という言葉をしっくり使えるほど雷堂がこの帝都にきてから時間を過ごしているわけではない。なら佐竹が強調した「昔」は雷堂が来て間もなく、おそらくは鳴海に好物を見抜かれてすぐの出来事なんだろう。鳴海は確かに強い甘味を好んではいないようで、それでも最初から、雷堂が鳴海に恋情を向けるどころか信用もしていない頃からさりげなくあまい菓子を差し出して来た。戸惑い焦り悩み、無様さばかりを露呈する少年にただ笑って。
「いただき、ます」
 小さく礼をして口に含めばやわらかな甘さが舌にとける。普段なら内心だけでも手放しで喜びたい味は身体に沁み渡り、そしてこころの内にも回って感情に熱を与えた。
 鳴海。
「美味かった、分けて下さって感謝する。次は所長と業斗と三人で伺おう」
「おう、待っとるわ」
 雷堂が言って半身を折れば、任侠も片手を上げて答えた。大黒湯に背を向けると少し離れたところで転がっていた業斗が戻ってくる。
『晴海か。元々行く予定ではあったがな』
「ああ」
 鳴海からの頼まれ事として菓子を渡したのもまっとうな理由のひとつだろう。しかし本題は菓子になぞらえて伝えられた情報だ。大黒湯の中ならいつものはっきりした物言いで渡されるはずだが、この荒れた今の帝都では若頭がゆっくり湯船に浸かるのは難しいらしい。
 軍にも伝を持っているらしい羽黒組の情報網を、件の将校がくぐり抜けた事はそれなりに痛手だったに違いない。舎弟達も有能な部類ではあるが海軍秘密将校相手では分が悪過ぎたのだろう。軍部の情報が「一切合財入ってくる」とまで言ってのけた若頭の顔を潰す事態に、彼らが死にものぐるいで動いただろうことは想像に難くなかった。
 置き手紙にあった海軍の言葉から海軍省にも向かうつもりだったが、これで晴海町には二重の用事が出来た。何を思ったか川野定吉が鳴海を探っているなら、誰にも告げず姿を消す直前の動向が掴めるかもしれない。
「葛葉ぁ」
 知らず足取りが速くなる背で声を受け、振り返れば佐竹がぷかりと輪になった煙を吐いていた。
「ちっとはマシな顔色になっとるわ、好物の力はおそろしいの」
 学帽の鍔を引いて同意を示し、雷堂は今度こそ駅まで真っ直ぐに歩き続ける。おそろしいという言葉はきっと好きに限りなく近しい。
 砂糖菓子で引き寄せられた鳴海の記憶は好きだと自覚させられたよりは随分古いものだったが、それでも雷堂は今の感情で愛しいと感じた。自覚のどれだけ前から鳴海に恋情を向けていたのか、それとも愛しいのは今だからこそなのか、雷堂にはわからない。ただそんな回想で得たのは力だ、と言って間違いないのだろう。
 異なる時空で無事を祈った焦燥も、雷堂を置いてひとり行ってしまったことに対する怒りや哀しみも、奥底で馬鹿だと思うのも、ただひたすら会いたいだけの気持ちも。全ては力だ。足を踏み出し、身体を前に進めるための力に無理矢理でも変えてしまう。
 追いつかなくてはならないのだから。
 鳴海に。
「急ぐぞ」
『……』
「業斗?」
『いや、なんでもないさ。急ごう』
 おおこわい、と聞こえたのは気のせいか。
 気にはなったが次の瞬間にはそのことを忘れてしまう。


 雷堂は勢い良く足の裏で地を蹴って、想い人へ続く道を進んだ。





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20090817

兄ぃの「居」は「お」、「言」は「ゆ」で読みがな打つとそれぽい感じに。