ひらりと外套の裾が揺れて雷堂が肩越しにこちらへ視線を寄越し、それから身体を一歩だけ動かした。まだ爆音や剣戟が耳の奥に残響として残っているのに、遮るものが無くなった視界で倒れているその人を見た途端、世界は無音になる。
 どう歩いたか記憶に無い。ただ気がついた時には膝を折って座り込み、その人の手のひらを持ち上げていた。あんまりつめたいものだから泣きそうになって、以前の温度を探して頬に擦り付ける。ああそうだ、貴方の大事なひとからもらってしまっていたこれをいつか返さなければと思ってたんだ。
 支える力を抜けば手のひらは当たり前の事だが滑り落ちた。ずるりと少しぬめった感触を擦り付けて腿の上に落ちていく手のひら。頬には血だかなんだかよくわからない体液が付いたようだが拭わずにもう一度手を拾って、その人の身体に沿わせた。開いたままの目を閉じさせるため自分の手のひらをあてて動かせば、短い睫毛が触れてすこしくすぐったかった。変わらない感触だ。一度きりだったはずの。
 つめたい身体が動く事は無い。

「宗像さん」

 やっぱりあなたは、あたしを泣かせるんだ






 頬を拭いた後の赤黒く染まった手巾を見て鳴海がうへぇと口の端を引き下げ、それから雷堂に謝った。
「すまん、こりゃ取れないわ。新しいの返すな」
「別に構わん」
 一応洗ってくるからと水場を求めて去って行く後ろ姿を眺め、雷堂は漸く身体の力を抜いてベンチの背に自重を預けた。大きく息を吐いたところで業斗が足下に蹲る。普段ならどの時間もそれなりに混雑している駅構内に人影がないのは戒厳令の影響もあるのだろう。
 宗像将校を、正確に言えば宗像に憑いたスクナヒコナを討った後の鳴海は静かだった。ただ静かに膝を付き手に触れ、そして遺体から雷堂に視線を移して一言、「行くか」と告げた。それだけだ。それだけで地下造船所を後にし、今こうして筑土町へ帰ろうとしている。
 正直、鳴海にどう接したらいいのかわからない。考える事は他にも山のようにある。超力超神を止める手段は未だ判明せず、このまま探偵事務所に戻って早急に対策を立てる必要があるだろう。宗像を倒しても何も終わってはいない。倒しても。
 肉を断つ感触は退魔刀を握る腕に慣れたものだというのに、雷堂は一度頭を振って記憶に残るそれを払った。こんなことでは帝都守護など成せるはずが無い。遠くに鳴海の姿を認めて背筋を伸ばした。
「雷堂?」
 戻って来た鳴海が持つ手巾にはまだ幾らか赤茶の染みが残っている。固く絞られているそれをひらひら空気に泳がせて鳴海もベンチに座った。
「駅員に聞いたら流石にちょっと遅れてるってさ。二十分はかかんないと思うけど、って」
「ああ。……所長、まだ頬に」
 うっすら残る血を雷堂が指先で刮げとれば、鳴海はその爪をじっと見つめてから瞼を下ろした。
「ん、ありがと。早く戻らないとな」
 言って鳴海は懐から煙草を取り出すと火を付けた。箱ごと歪めてしまったらしく大きく折れ曲がっている煙草を難なく銜えて紫煙を燻らせる姿を眺め、雷堂は頷く。そうだ、何も終わっていない、けれど。
 脱力してベンチに身を預ける鳴海はぼんやりと宙を仰いでいた。吐き出される煙はゆらゆらと立ち上り消えていく事もあれば、時たま髪を揺らす風に直ぐさま散らされる事もある。
「お前にはみっともないとこばっか見られて、情けない所長様だな」
 くく、と喉を鳴らした鳴海の肩が揺れた。
「我が知っているのはその『情けない所長様』だけだからどうとも思わん。大体我の方が余程情けない様を見せているような気がする」
「そうかあ?オネーサン雷堂君は男前だと思いますけどね。ま、そんなもんかもな」
 鳴海の胸中がどうなっているのか雷堂に知る術はない。単に己が未熟だから察する事が出来ないのか、常通りの様を見せる鳴海に少し苛立ちまで覚えた。間違いなく傷付いているはずなのに、また突き放されて置き去りにされるようだ。
「男前だというなら」
「ん?」
「……何でもない」
 思わず零れた言葉は運良く鳴海に届かなかったらしい。想い人に男前だと言われてうれしいのは確かだが、こんなからかうように言われても満足は出来ない。男前であっても無くても、雷堂が望むのは鳴海と同じ立ち位置だ。庇護される少年ではない。一回り以上も年上の女性にそんなことを望むのは不遜かもしれないけれど、想う気持ちはどうしようもないもので。
「なぁ雷堂、こっち向いてくれ」
 煙草を携帯灰皿へ押し付けた鳴海がそんなことを言い、唐突な言葉を訝しみながら雷堂は上司の言葉に従った。そう広くもないベンチでは完全に横を向く事は出来ないが、上半身をある程度鳴海に向ける。鳴海は少し躙り寄って距離を詰め、雷堂の目を見てへらりと笑い。
「みっともないついでだ。ちょっとばかし我慢して貸してくれ、な」
 胸元に重みが預けられた事を理解出来ず、暫く雷堂は固まっていた。
 ただ間違いなく管のホルスターより上辺りに触れているのは鳴海の額で、僅かな身じろぎで癖毛と眼鏡が学生服の布地に擦れて音を立てる。いくら一般人の姿を見かけずまだ周囲を警戒する必要があったとはいえ、外套を背に流したままで武具を隠していないことに気付いたのはこの時だった。
「ぅ、……、ぁ、」
 やがてちいさなちいさな嗚咽が風景の音に紛れて雷堂の耳に入って来た。もちろん俯く表情は見る事が適わず、雷堂の視界には肩を落とした鳴海の風に揺れる癖毛しかない。鳴海側の腕をおそるおそる動かして背を抱こうとしたあたりで胸に縋る女がひとつしゃくり上げた。触れている部分の熱はじんわりと雷堂を浸食する。
 鳴海には気付かれないように小さく息を吐き、雷堂は浮かせた腕をそのまま動かしてまだ肩にひっかけていた外套を掴んだ。その細い体躯を覆うには布の量が足りないが、それでも片側を広げて鳴海に被せてやる。音よりは体温と僅かな揺れで知れる静かな涙。

 彷徨った手は結局のところ身体の横に落ち着き、電車がホームに滑り込むまで雷堂はただ前だけを見据えていた。








 万能科学研究所へ向かう書生と黒猫の姿を銀楼閣三階の窓から眺め、鳴海は銜えた煙草に火を付けた。少し離れてから雷堂がこちらを振り返るのに手を振り、答えのつもりなのか学帽の鍔を引く動作を見届ける。そういえば雷堂が銀楼閣を出てから振り返るようになったのは何時からだろう。思い出せない事に苦笑し、合わせてこの数日の自分を振り返って鳴海は落ちぶれたもんだと自嘲した。こんな様で昔の仕事をしていればすぐ命を落としていただろう。
「……」
 確かに戻らない雷堂と過去の恩人への感情から多少判断が鈍っていたと自分でも思うが、どう転んだところで痛手ではない。命の有無は考えないとして。
 零に等しい可能性だとしても自分が宗像を止められたなら万々歳。
 雷堂が追って来るなら、何らかの形で少年へ道を示せたなら及第点。
 追って来ない、いや追って来れないとしても得た情報やらを伝えられたならこれも及第点。
 伝える方法などいくらでもある。最悪、いや最悪ではなく使うと決めてしまっている方法で──この命をかけて辺りの悪魔と取引でもすればいいのだ。雷堂や目付けに教えた事は無いが、悪魔を見聞きできるこの身なら従える事はできなくても取引は可能で、一度だけ視力と引き換えにささやかな願いを叶えたこともある。後になってからヤタガラスにはそういった人間の魂は悪魔には魅力的なのだと聞かされた。デビルサマナーではない人間が持つ最上のカードは己の命だ。少年のために放り出すなら少しは役に立ったと思えるだろう。
 それに地下造船所で語った気持ちにも偽りはない。

 宗像を好きだったから。
 雷堂が大事だから。

 小狡い思惑ひとつと間違いない己の感情ふたつ。合わせて持って死に場所へ向かったというのに、不思議なものでこうして生きて煙草を呑んでいる。
「いやはや、大したモンだね葛葉雷堂様は」
 どこであんな育っちゃったのやら。
 聞く相手がいないのに零した言葉に思い出したのは想いを告げる少年の真っ直ぐな瞳で、鳴海はがしがしと癖毛を掻いた。
「……あー」
 胸を借りて泣いてからそれ程時間が経っているわけでもないのに、何故だか遥か昔のことのような気がする。泣くという行為自体に呼び起こされるのが過去の記憶ばかりだからだろうか。
 いつも涙はあの人が引金で溢れた。頭を無視して身体が泣くのは何時だってあの人の前で、それは好きだからという一言では説明出来ない作用だったはずだ。今回だってあの人を想って泣いた。
 でも。
 あのとき、雷堂を見てこころに浮かんだのは「もういいか」という一言だった。何に対する言葉なのかは鳴海にもはっきりとは理解出来ず、昔々の恋情に溺れた馬鹿な様を見せた開き直りだととりあえず理由を付けたがそれも間違いではないのだろう。
 思い返せば、笑って零したとは言え雷堂には最初から涙を見せてしまっているのだから。そう思ったのかもしれない。だから、もういいか、と。こんなふらついたイキモノが多少寄っかかってもあの真っ直ぐな背は微動だにしないだろうから。
 泣いてもいいか。そう思った。
 電車が来るまでの短い時間、雷堂は何も言わなかったし鳴海が顔を上げても乗車を促すだけだった。まだ乾いていない雷堂の手巾で瞼を冷やす車中ですら無言だ。探偵社に戻ってからは超力超神をどう止めるか、とすぐ話し合いを始めてしまったのでまるであの時間はなかったことのように扱われている。
 なかったことにする。それは大人の専売特許とばかり思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。くく、と喉を鳴らして鳴海は窓の外へ視線を向けた。今出来るのは少年を信じること、帰ってくる一人と一匹と自分のために珈琲をいれることぐらいだ。
 なかったことにしたくないと思う理由を自分の中から掬うのは全部が終わってからでいい。

「知ってたけどさ。やっぱ自分に返ってくんだよなあ」

 少年と黒猫を想って窓から見上げた空は酷く高く、青かった。





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20090827

せこせこ考えるのも大人の特権ですよ、ということで。