銀楼閣屋上は今日も風で満ちている。
 扉の内側で煙草に火を付けたらしい鳴海が足音を立てず屋上に現れ、はたはたと風に遊ぶ洗濯物を見渡してから手すりに凭れた。軽子川商店街を見下ろす肩に小さな影が落ち、僅かな羽音を伴って一羽の烏が舞い降りる。
「業斗さん」
『全ての店が営業再開したか。思ったよりも早かったな』
「みんな逞しいもんですよ」
 目を細めた鳴海の髪を黒い嘴が啄む。黒猫が空に散ったと聞かされた時の鳴海は相変わらず笑いながら深く悲しんでいたが、先日烏と言葉を交わして漸く憂いを取り払ったらしい。烏とは逆の側へ煙を吐き出し、鳴海は片肘を手すりに付けて手に顎を乗せた。
『最近はどうだ』
「ご近所の手伝いも一段落しましたし、まあのんびりやってるとこです。相変わらず平和な鳴海探偵社ですね」
『鳴海』
「…………」
『鳴海』
 癖毛をがしがしと掻いた後で鳴海は眉を寄せて煙草を銜えた。ぎゅ、と一息で赤く熱を灯す部分が広がり、新たな灰をつくり出す。そのまま勢い良く吹きかけられた煙が闇色の羽へ届く前に、烏は鳴海の肩から一番近い物干竿の上に居場所を移していた。
「業斗さん……」
 カァ、とどこか響く鳴き声が屋上の音を浚って消えて行く。
『そう睨むな、若造』
「そりゃ業斗さんから見りゃ私も若造でしょうけどね」
 まぁもちろん薹は立ってるんですけど、呟く鳴海が目を閉じて手すりに突っ伏した。カァカァと鳴く声に意思は混ざっていないがひょっとしたら鳴海を慰めているのか、烏が持つ緑の目は穏やかな色を讃えているようにも見える。
「…………」
『何もないのか?』
「なーんもありゃしません。私はぐーたら働かない所長だし雷堂は書生で探偵見習いでご存知の通りデビルサマナーとやらです。ついでにオカルト絡みの依頼もありゃしませんよ」
『そろそろ小僧に押し倒されでもしたかと思ったが』
「……、……」
 急に強く吹いた風が洗濯物を揺らす。端にかけられた白い布がはためいて竿の支柱に何度か絡み付き、それから横一筋になるまで煽られてまた元の位置に戻った。
「……何もないって言ってるじゃないですか。正直地下まで追っかけられたあの時には、まあ何と言うか……うん、ちょっところっといきかけましたけど、」
『ほう』
「押し倒されるだなんてとんでもない。何か言われるわけでもなし、手を出されるわけでもなし。あいつも年頃の男の子ですからねェ、里じゃ女ッ気無かったみたいだからよくわからんですけど何か勘違いだった、とかでも十分納得しちゃいま──」

「好き勝手ぬかすなこの馬鹿女が!!」

 雷堂の叫びに業斗がばさりと羽音を立てて鳴海の側まで移動し、黒い羽根を一枚屋上の床に落とした。身体を起こして雷堂を振り返った鳴海は手すりに背を預け、眉を下げたままくつくつ笑っている。身を震わせている烏も笑っているに違いない。
 屋上に雷堂が居るとわかっていて繰り広げられる茶番じみたやりとりに無言しか挟めなかったのは「何もない」のが事実だったからだ。最後の洗濯物を干した直後、鳴海が口にした言葉には流石に腹が立って思わず遮ったが、怒鳴ると同時に籐の籠を持つ手へ力が入ったらしく持ち手を砕いてしまった。この分だと耳まで赤くなっているかもしれない。
「雷堂ちゃん、籠」
「……後で直す。それより」
 籠を足下に置いて手のひらに貼り付いた欠片を払う。羽を広げた業斗が手すりから飛び立って雷堂の横を通り過ぎた。
『席を外してやる。腑抜けるなよ、小僧』
 笑いを含んだ囁きが耳の奥にこびり付き、雷堂が振り返る頃には闇色など空の何処にも見つからない。先達と上司はほんとうに意地が悪い、と思わず頭を抱えそうになるのを気力で堪えた。先送りにしていたこれはどうしたって向かわなければならない問題だ。視線を鳴海に戻せば背後で羽音がひとつだけ聞こえたような気がする。
 帝都を揺るがす事件の終わり、時空の狭間で思ったのはここで死ねないということ。帝都を、鳴海を守る。誓いは成さなければ意味がない。そう長いとは言えない帝都での日々、出会った人々、起こった日常、走馬灯のような記憶の奔流の中で見つけたのは鳴海だった。ああ、と思わず零した途端に降り立ったのは筑土町の丑込め返り橋で。
「勘違いとは聞き捨てならん」
「そ?」
 ずっと知りたかったのだと、あの時漸く自覚した。
「言ったはずだ。我が好きなのは鳴海さんだと」
「だってお前、」
 鳴海の言い分もわからないではない。全てが終わってから暫くは近所の手伝いで忙殺される日々だったが平和と言えば平和で、超力兵団事件が起こる前と然程変わらない日常を送っている。想いを自覚してから余り時が経たないうちに事件が起こったから「変わらない日常」ではまるで雷堂の恋情など存在していないように思われても仕方が無いだろう。
 ただ雷堂から言わせてもらえば次々と事態が急転する事件中よりもこの穏やかな日々の方が余程おそろしかった。何かがあれば、なかった頃とは違うのは当たり前だ。異なる時空の己が言った事はきっとどこまでも正しい。
「……」
 想いを鳴海に告げ、その告白がなかったことにされている、と思った時。落胆と同時に心の底で感じたのはおそらく安堵だった。雷堂の恋情を鳴海が知らないなら拒絶される事も、告白による関係の変化もないからだ。
 己の事ながら情けない、と自嘲しようとして雷堂はそれも違うと頭を振った。帝都守護を使命とする当代葛葉雷堂がたった一人の女の、一言に怯えるなどと。臆病にも程がある、そんなことで使命など、と思ったところで唐突に気付いたのだ。
 当たり前だ。
「我は」
 誉れ高き葛葉四家系が一角、当代雷堂の名を負うデビルサマナーとして鳴海に惚れたのではなく。いや、葛葉雷堂は確実に己を構成する真中にあるからそう表現しても差し支えは無いのだが。
 単純に鳴海を想う男として。
「鳴海さんが好きだ」
 なら、こう問う事に恐怖するのも当然なのだろう。
「今更かもしれんが。……答えが欲しい」
 おそらくずっと知りたかったことだ。自分の感情に手一杯で、そして答えがおそろしくて目を瞑っていた欲求でもある。言葉にして零してしまえば過去に遡って取り消すだなんてことができるはずもなく、雷堂は断罪を待つ気分で紫煙を燻らせる鳴海を見据えた。多少開き直っているという自覚はある。
 ここまで曝け出した。なかったことになどさせるものか。
「ん」
 凪いだ空気に細く煙を吐き出して鳴海が一度瞼を下ろした。僅かな間を置いて覗く瞳に身構えた雷堂へ、与えられたのは底抜けに明るい笑み。

「わからん!」

 ひゅう、と一陣の風が通り過ぎた。
 うっわあすっごい間抜け面、などと鳴海のいっそ感心したような声が聞こえて雷堂は漸く硬直から解放された。
「な、な、な、」
「ははははは!、……まあ聞け」
 何を口にすればいいかもわからず、とんでもない答えに音だけを零していた雷堂に鳴海が遠慮なく笑う。言い募ろうとしたところで聞こえた穏やかな声音に言葉を失い、改めて鳴海を見れば大口を開けて笑っていた女は少し目を眇めていた。
「好きか嫌いかで聞かれりゃもちろん好きだよ。お前は真っ直ぐでかわいくて男前でいいこだからな。ついでにえっらいこと別嬪さんだし。……ほんとに、心から、お前にはしあわせになって欲しいと思ってる」
 言って鳴海は煙草を灰皿に押し付けた。よっ、とちいさな掛け声をかけて手すりに預けていた身体を立て直すと数歩分の距離を埋め、雷堂の胸に手のひらをあてる。取り戻した日常にはなかった距離に、鼓動が暴れるのは鳴海に正しく知られているんだろう。
「最初ん時はなんで私なんか、としか思わなかった。で、まあ……追っかけて来た時は正直うれしかったよ。あの時はお前おっかないなあとしか思わなかったけどな」
 くくく、と笑う鳴海の顔が俯く。無性にその表情が見たいと思い、同じだけ見たくないと思った。
「……駅でココ貸してくれてありがと。ずっとお礼言わなきゃと思ってたんだけど」
「礼など要らん」
「そう言うなって」
「我以外の前で泣かれる方が余程腹立たしい」
「……ッ、!」
 俯いたままの額が肩に預けられ、雷堂は震える身体を一瞥して目を閉じると溜息を吐いた。こんなことに慣れるのもどうかと、ほんとうにどうかと思うのだが。


「っだから何でそこで笑うのだ貴様は!」


 何でと言われても衝動が身体を襲うのだからどうしようもない。遠慮なく大声を上げて笑い、息苦しくなって鳴海は雷堂の服の胸元辺りをぎゅうと掴んだ。目には涙まで滲んで来てほんとうにどうしようもない。
「はは、は、はー……や、や、ごめんごめん、あんまりかわいいもんだから」
 伝えた事はどうしようもなく本音だが、今までとすこし違う部分が反応した心に少し照れる。相も変わらずなその不器用な素直さをかわいいと思い、そして存在しない相手への嫉妬はまちがいなく自分をよろこばせたのだから。
 雷堂の嫉妬は無意味だ。どれだけ考えても、何かの必要があって自ら涙を造り出す場合を除けばあんな風に泣けるのは雷堂の前だけだと思う。ならいいじゃないか、この先どうなるかはわからないけれど。かわいいこが、しあわせにしたいこが、真っ直ぐな背と瞳を持つ男が、雷堂が望んでくれるなら。
「……、」
 聞いた事の無い舌打ちまで聞こえて思わず喉が鳴る。どうにか笑いをある程度まで押さえつけると鳴海は涙の滲む視界のまま顔を上げた。
「あのさ。お前とどうこうなりたいとかそういうの、私にはわかんないんだ。だからわからんとしか言えない」
「それは」
「けどな、自分の気持ちってのはあるから」
 とん、と唇を雷堂のそれに押し当ててすぐ離れる。触れた感触も曖昧なくちづけには褒美を与えたような気持ちも確かに混ざり、照れ隠しにしちゃ我ながら傲慢だと内心で苦笑した。まあこれぐらいは勘弁してもらおう。
 わからないなりにでも、確かに想う気持ちがある。
 固まった雷堂の顔がじわりと赤く染まっていくのを眺め、鳴海は目を細めた。そんな様でも雷堂の瞳は真っ直ぐに鳴海を捉えていて、ああつかまっちゃったなあなどと思う。こうして顔と瞳を合わせて告げることができる幸福が、こんな感情が自分に訪れるとは思っていなかった。だからありがとう、そして。


「雷堂が好きだ」


 眉を下げてへらりと笑う。鳴海がそんないつも通りの表情で言った言葉は、与えられた感触と同じく理解するのに随分と時間がかかった。言われた「好き」に篭る感情が今までと違っていると思うのは自惚れだろうか。気付けば雷堂の腕は主を無視してぎゅう、と鳴海の細い身体を抱き込んでいる。
「雷堂ちゃん、痛い」
「好きだ」
「なあ、痛いってば」
「好きだ」
「……」
 馬鹿のように繰り返せばやがて鳴海からの苦情も途絶え、換わりにくつくつ喉を鳴らす振動を身体で知った。ばたばたばた、と強い風が洗濯物をはためかせる音が急に耳へ飛び込んで来て我に返る。
 思わず鳴海の肩を掴んでばっと引き離せば、抱いていた女はあら残念と呟いてまた笑った。
「す、すまな」
「何で謝ってんの」
 触れる事を許された身体から手を離すのはどうしても惜しい。そのまま謝ろうとして睨まれても穏やかな気配に咎められたとは感じなかった。
「その、痛いと言われていたのにだな」
「離せとまでは言わなかっただろ?お前一時のあの勢いはどこいったんだよ」
「……そんなもの知らん」
 勢いなどと言われても雷堂に自覚は無い。冷静とは言えなかっただろう記憶が山程あるぐらいだ。雷堂に制御出来ない感情を、そして欲を教えた張本人にそんなことを言われてしまえば流石に面白くない。
「はは、ま、そうかもな。んじゃそろそろ飯にしない?腹減っちゃってさあ」
「朝食の時に起きて来ないからだろう」
 自然に離れた身体を引き止める事は出来ず、背を向けて屋上の出口に向かう鳴海の一歩後ろを付いて歩く。途中で籠を拾って追う雷堂に聞こえたのは、扉に手をかけた鳴海の独り言じみた呟きだった。
「しょうがないだろ」
 ──考えてたら寝れなかったんだから。
「鳴海さん」
 湧き上がる衝動が身体を動かす。振り向かせて顔を寄せれば距離の近さに驚いたのか、は、と鳴海の口から意味の無い言葉が零れた。ああなるほどこれを勢いというのだな。頭の片隅で納得する頃にはもう唇が重なっている。


 再び雷堂の手を離れた籠が音を立てて床に落ち、二人の足下でくるりと回ってから口を晴れた空に向けて座り込む。籠の中に降ってくるのは洗濯物のはためく影とその隙間を縫う日光と。

 動かない影の横。
 カァ、と随分高いところからひと鳴きが籠に放り込まれて消えてしまった。





終わり


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20090830

これにて超力軸の話はおしまいです。お付き合い頂きありがとうございました!