銀楼閣の屋上は軽子川商店街が見渡せる。所長席後ろの窓に凭れて煙草を楽しむのも好きだが、屋上でのそれもまた気に入っている鳴海は階段を昇り切ったところで火を付けて一口紫煙を燻らせた。 「……から、本意の結果ではないが……」 『まあ……信じて……』 聞き慣れた声がふたつ、風に運ばれて途切れ途切れに聞こえてくる。鳴海探偵社の書生はこの時刻、師範学校に居ると認識していたのだが何か召喚師としての任務でも入ったのだろうか。目付けの任は解かれていなくとも後進と僅かな距離を置く様になった業斗の声が頭の片隅で響く。 「……?」 ふと覚えた違和感に鳴海は目を眇めた。何度確認し直しても会話の主は雷堂と業斗なのだと頭は判断するが、何か違う気がする。 「雷堂ちゃ――ッ」 漸く屋上へ出る扉をくぐり、声の方向へ顔を向けながら書生の名を呼び終えるより先、身体が動いた。それでも懐へ探らせた指がルガーを掴むに至らなかったのは、目線の先に立つ男がとんでもなく綺麗な顔で笑いながら言ってのけたからだ。 「鳴海」 持ち上がる唇の隙間から零れたのは己の名。 その様に思わず見蕩れたのは情人へ内緒にしておかなくては。 内心で反応が遅れた事への言い訳を呟き、鳴海は男を眺めてから傍の物干竿に停まる業斗へ視線を向ける。何も言わなくても察してくれたらしい烏は嘴を片翼の下に突っ込み幾度か梳いてから鳴海に答えた。 『敵ではない、というのだけは確かだな。まあ……見ての通りだ』 とりあえず業斗が敵ではないというならそうなのだろう。見ての通りと言われても困るだけなのだが、とりあえず鳴海はもう一度男を眺めた。 黒尽くめでめったとない美形というのはここに居ない雷堂と共通しているけれど、知っている書生より少なくとも三つ以上は年上で確実に成人しているように見える。そこらの男と其れ程身長に差のない鳴海でも見上げる形になる程の長身。夜色をした外套の下は同じ色の三つ揃えに包まれているようだ。外套と共布らしいハンチング帽は目深に被せられ、鍔の影から真っ直ぐな瞳が鳴海を見据えていた。 「……、」 長い睫毛に縁取られた切れ長の目、そして何より右目を縦に、鼻筋を横に走る二本の線。 「らいどう、に見えるんですけど」 『ああ』 「でも」 カア、と烏の鳴き声が響く。混乱する鳴海の傍へばさりと羽音を立てて業斗が移動し、志乃田の方向を一睨みしてから言葉を継いだ。 『お前の疑問は俺も感じている。が、まあ大事にはならんだろうよ。……俺は少し出る』 「業斗さん! じゃあこいつ」 ばさり。風を打つ羽ばたきひとつで見えない道に身体を滑らせ、烏が空を進んだ。見る間に小さくなる黒い点を暫く目で追い、それから溜息ひとつ吐いて鳴海が癖毛を掻けば横に佇む男は笑ったようだった。 「で、結局のところお前は未来の雷堂だーとか言っちゃうワケ?」 「我が自分の生きる時空の『過去』に飛んだのか、それとも良く似た『異なる時空』に飛んだのかそれはわからん。個人的に言わせてもらえば……何もかもが懐かしい、がな」 落ち着くために大して吸わないうちに燃え尽きてしまった煙草を灰皿へ放り、新しいものに火を付ける。異なる時空というものが存在することは超力兵団事件の折に雷堂自身から報告を受けて知っているけれど、目の当たりにするのは初めてだ。 「本来なら過去への干渉は許されるものではないのだが」 此処へ飛んだのは我の意志ではなく様々な条件が重なったものだから仕方が無いとしておこう。然程悪びれもせず言う様に今の雷堂には無いものを感じて鳴海は僅かに目を眇めた。 詳しく語る事が出来ず申し訳ない、と前置いて雷堂は関わっている事件が原因で此処まで飛ばされたのだと言った。手すりに凭れる鳴海の前でハンチングを取って静かに息を吐く。 「怪我は」 「治療が必要なものではない。何度味わっても強制的に時空を超えるという感覚は慣れん」 よくよく聞けば少年よりも声の響きが深い。歳を重ねていれば当たり前か。 そんな感想を持ったとは言え特に聞き入っていたというわけでもないのに、す、と音も立てず近付いて来た指先を避ける事が出来なかったのはどうしてだろう。スーツのポケットから当然の様に煙草を奪った男は遅れて失敬、と呟くと銜えて火を付けた。吐き出されて漂う紫煙は吹く風に攫われてしまう。 「こら、未成年……じゃ、ないか。苦手じゃなかったっけ」 「常習している訳ではない。これも何時ぶりかもうわからん」 噎せもせず燻らせる姿は常習していないという言葉を疑わせる程手慣れていたが、重ねて聞く事も戸惑われて鳴海は口を噤んでいた。鳴海の知る書生がどんな風に時を過ごせば目の前の男になるのかはわからないが、聞く事はどことなくおそろしい。 しばらく二人とも無言のままで煙草を呑んでいた。おそらく業斗がヤタガラスへ対処を窺いに行っているから鳴海に出来る事は何も無い。男を眺めることにも気が引けてとりあえず一本吸い切ったところで、これだけはと口を開いた。視線を向ければ当然の様に目が合うのは男がずっと鳴海を見ていたから、なのだろうか。 「……なあ」 「何だ」 「事情とか何も聞かない方が良いんだろうけど」 「下手な干渉は避けた方が良いのは確かだ」 「うん、ま、でもこれだけ聞かせてくれよ」 自然と零れた苦笑はちいさな風が攫っていった。ぱしゃんと軽子川の水面を何かが撫ぜてまた姿を隠す。音に引かれて一度視線を川へ落とし、それから男へ戻して鳴海は口を開いた。 「しあわせか」 男がどんな存在であれ「雷堂」ならそれだけが気がかりだ。しあわせならばそれでいい。しあわせの理由もどうでもいい。未来が知りたい訳でもない。 ただ──雷堂自身がしあわせだと思えているのなら、それでいい。 問われた男は質問が理解出来ないとでも言う様に二三度瞬きし、それからやわらかく目を細めた。もちろん意に添わず時空を超えさせられた事態は幸せとはほど遠いだろうが、質問の意図はどうやら正しく掬われたらしい。まただ、と鳴海は思う。身体や見た目より余程明確に、書生と異なるのはこの表情だ。とんでもなく綺麗な顔でとんでもなく綺麗に笑う。少し幼くても同じ顔を持っている書生がこんな笑みを浮かべた事は無い。 「その答えは鳴海が持っている」 何でもない事の様に男はぽつりと言い、最後の一口を吸うと煙草を灰皿に放り込んだ。僅かな火が残る吸い殻からは細い紫煙が昇る。 鳴海に寄越された返答は真っ直ぐな気質に似合わず少々捻ったものだった。成長する中で変な躱し方を覚えたのか、それともある意味で変わらず真っ直ぐ過ぎる程に真っ直ぐなのか。男の「現在」に未来の己が関わっているかは五分五分程度だと考えていた鳴海は癖毛を掻いて溜息を吐いた。何とも意地の悪い返事だ。誰に似たのやら。 重い息の塊を見つけた男は薄く笑って鳴海との距離を詰めた。もともと離れていた訳ではないから数歩進めば止まってしまう。 「私が、ねぇ」 普段よりも見上げる姿勢にどうしようもない違和感を覚えて眉を寄せていると、男がひょいと鳴海の頭に手のひらを置いた。 「おい」 「我の背が伸びる度に若者はすぐ成長して変わっていく、大人はそうそう変われないからのんびり見ててやるよ、と言われたものだが……鳴海も変わっているのだな」 「なんだよそれ。あ、皺とかお肌とか言うなよ!女にソレ言ったら最悪だ」 「まさか。そんなものではない」 失礼。 ぞっとするような声が耳に押し込まれるのと同時に腰を片腕で抱き掬われ、その無遠慮な力に押されて自然と上向いた鳴海は至近距離で男の瞳を覗き込む羽目になった。どちらかと言えば男の所作寄りもそれを許してしまった自身に驚くのも束の間、薄い唇が鳴海のそれに押し当てられる。 「──ん、」 目を閉じてしまうのは染み付いた反射のような気がするのがまた恥ずかしい。離せ、という意思表示に男の胸を手のひらで押せば、男の空いた手に指を絡めて捕らえられた。掴んだまま男の手は鳴海の首筋に運ばれ、長い指の背が肌をくすぐる。 「、」 知っている場所を辿るような迷いの無い動きは快楽の火種にも満たない何かを鳴海に植え付けた。しかし違和感に近いそれは腰を掬う手がわかりやすく淫らな動きをし出した事で簡単に掻き消されてしまう。 「ばかやろ……、他所の女に手を出してんじゃないよ。私はお前のじゃない」 「すまないと思ったから断った」 「ったく、どこでこんなの覚えたんだか」 重なった唇はただ幾度も食まれるだけだったが、それも含めて妙な慣れが気に入らない。結局力を込めて振りほどけば男も拘束するつもりはなかったらしくあっさりと腕を解いた。憎まれ口にも平然としていた男は鳴海の言葉に喉を鳴らす。 「……なんだよ」 「いや、なんでもない。嫌ならすまなかった、「私」と聞くのが久々でな。可愛いと思ったら止められなかった」 くつくつと笑う男を仏頂面で眺めていた鳴海はふと空気の揺れを感じて空を仰いだ。変わらず広がる青と影のはっきりした雲に不審なものはない。 「思ったよりも早かったな。業斗は間に合わなかったか」 「え」 男を見れば先程の鳴海と同じく空を仰いでいる。鳴海には知覚出来ないものが見えているのか、しばらく睨みつけた後に再びハンチングを深く被った。 「本来ならなそれなりの手順を踏まねばならんのだが、今回は特殊な条件が重なっていると言っただろう。また飛ぶことになるから離れていてくれ」 言って男は口の中で何か唱え始めると。足下から生まれた淡い黒の霧がその身体を覆って僅かに輪郭をぼやかせた。 「飛ぶって、自分のところに戻れるのか」 「問題ない。戻ってみせる」 物言いには未だ戻るまでに幾つか労力を必要とすることが含まれていたが、男は口の端を持ち上げて自信ありげに笑ってみせた。不遜とも言える態度に出会ったばかりの少年と同じものを見つけて、この時初めて鳴海は男と少年が同じ人物だと思った。 この男は、雷堂だ。 「口付けた事は此処の我に内密に。戯れでも聞かされれば嫉妬に狂うと我が保証しよう」 「また聞きたくもない保証だなァ。そんぐらいはね、この鳴海サンでも気遣い致しますよ。……私の男はお前じゃなくてあのこだから、な」 「は!」 声を上げて笑った男は酷く楽しげな顔を見せると深くハンチングの鍔を引いた。途端に目元は隠されてわからなくなってしまう。 「そうだな、此処の鳴海は我のではない。愛しいのは変わらないが」 我の付けた癖が無い鳴海というのは少々もの寂しい。 「ッ、お前っ」 聞こえた言葉に思わず首筋へ手を遣り叫べば、男はただ真摯な瞳で鳴海を見据えていた。からかいなのか真っ直ぐ過ぎる本音か。判断出来ないうちにその黒づくめの姿が空へ溶ける様に薄くなる。 「──どうか、息災で」 ひゅ、と強い風が鳴海の目を閉じさせた。瞼を持ち上げる頃には男の姿は何処にも見つけられず、屋上には鳴海が一人佇むだけだ。 「お前も元気でな」 ぽつりともう居ない相手に呟き、鳴海は背後の手すりに凭れるとそのままずるずるしゃがみ込んだ。ベストの背が汚れたかもしれないが今はそれどころじゃない。 「〜〜〜っ」 膝の間に顔を埋め、熱い頬を自覚してまた熱くなる。この分ならはた目から見れば頬はわかりやすく染まっている事だろう。今まで抑えていられただけ上出来だ。一度として名は呼ばなかったが、あの男が雷堂だと思った瞬間に覚えたのはとんでもない照れだった。だってあの男は一度たりとも敬称を使わずに呼んでいたではないか。 鳴海、と。 「うー」 想い人の書生は対外的に鳴海を所長と呼んでいる。想いを告げられる手前あたりで探偵業に関係ないところでは鳴海さん、と呼ばれる様になった。情人なった今でもそれは変わらない。鳴海、と呼び捨てられる事が無いとは言わない。でもそれは閨の中の、しかも最中に限った話であって、それだって鳴海が強請ったのを雷堂が叶えてくれているだけだ。 「何があったのか、何年先なのかは知らねぇけど」 ひとしきり照れてから大きく息を吐き、鳴海は新しい煙草に火を付けた。上向いて吐いた紫煙は空の一部を一瞬だけ薄く隠して消えていく。 「ま、元気そうでよかった」 あの男の傍には「彼の鳴海」が居るような言い分だったが、ひょっとしたら男が気を利かせただけで男からすればそれすらも過去の話かもしれない。今の男の傍に鳴海は居ないのかもしれない。答えを知るのは男だけだ。 「……。白昼夢、ってことにしときますかね」 姿は見えずともどこかで羽ばたきが聞こえた。それを勝手に肯定の音と決めつけて鳴海はひっそり笑った。口付け云々ではなく、今日の邂逅そのものを雷堂に話すつもりはない。 鳴海と共に在る未来を過度に期待されちゃ困る。 困るよりもかわいそうだと表現する方が正しいか。 「ああ、雷堂ちゃんに会いたいなァ」 夕方には学校から帰ってくる。何時もの様に出迎えて軽くくちづけてやろう。真っ赤になって固まるか、おずおずと応えてくるか。箍が外れて押し倒してくるか。最後の可能性は低いだろうけどどれだって歓迎してしまうのは誰よりも鳴海がわかっている。 くつくつと喉を鳴らす女に、ばさりともうひとつ羽ばたきの音が寄越された。 --------------------------------------------------------- 20100111
ああもんのすごく楽しかった!一応未来雷堂さんと現在ナルミさんのお話でした。
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