鳴海探偵社の所長はだらしない。
 呑むは打つはとこれで色でも買っていれば立派な三拍子が揃っているが、生憎と買う、だけが当てはまらないのは所長自身が女だからだ。とはいえ朝帰りも多く、最初のうちは律儀に帰りを待っていた雷堂もやがて放置して自分の睡眠を確保するようになった。
 女性解放運動だなんだと叫ばれている世の中でも鳴海の存在は十分異質だったが、女だてらにオカルト専門の探偵社など開いていればどれだけ特殊でも「そんなものか」で終わってしまうのか、筑土町の面々はおおむね鳴海所長を受け入れている。あの子はいつお嫁に行くのかしらねなどとおせっかいな婆さんなどは毎日通学途中の雷堂を捕まえてくるので、聞かされる方としては耳にタコができる勢いだった。

 時折鳴海がどこからか仕入れてくる情報は雷堂を唸らせたが、基本的に所長は遊ぶ事を仕事と定めているようだ。働けと繰り返し怒鳴る雷堂を言葉や態度でするりとかわし、指示ともつかない声掛けだけして何処かに消える。
 何故この女が上司なのか。上司とは名ばかりの物でも、当代葛葉雷堂の帝都における後見人なのか。
 鳴海とともに普通の探偵業をいくつか、悪魔絡みの物をほぼ単独で両手の指を超えるほど、近所の手伝いなら毎日一つ以上。
 帝都へ赴いて一月とすこしばかり。

 夕暮れが空の端を染める時刻、十代後半の若いデビルサマナーは腕を組んだ何時ものポーズのまま、ある意味自分に素直にキレた。

「なるほど。お前は納得いかないかもなあ」
 へらへらと笑うばかりの鳴海は煙草を呑むと、足をどかりと机の上に置いて組んだ。振動でがちゃがちゃと雑多なものが音を立てる。
「……話にならない」
 言って雷堂は定位置でくるりと振り返った。怒りやわけのわからない感情で波立つばかりの心中を納める為にはこれ以上会話を続けられない、と判断できる程度の冷静さはまだ持ち合わせているつもりだ。だというのに、気が急くまま僅かな段差に足をかけた雷堂を襲ったのは、紛れもない殺気だった。
「――ッ」
 何よりも反射で身体は動く。
 筑土町にこんなぞっとするような殺気を放てる悪魔はいないはずだ。それはなによりもデビルサマナーたる自分が知っている。異質なものが流れ込んでくれば感覚として捉えられるだろうし、仲間が真っ先に主に伝えてくるだろう。なのに、この、今まで知る悪魔のものよりもっとおぞましい――純粋な「死ね」という意思よりも粘つくこれは、
 いったい何だ。
 反射で、身体が動く。その機能は長年の修練の賜物であり、帝都へ赴いてからの経験でより確かに身に付けたものだ。自らの才能はさておき、強くなる為の努力を怠る事なく続けているという自負が雷堂にはある。それが十四代目であるための大切な支えとなっているのは間違いない。
 察知した感覚の赴くまま、距離として刀は届かないだろうと腕が勝手に銃を抜く。込められている弾丸は属性を持つものではないが十分だ、当てる事も問題ない。表情はおそらく変わっていないまま、対象へ向けて限界まで絞られた神経が針のように向かう、集中の極限でゆっくりと視界が動いていく、そして知覚するのは銃の冷たさだけだというのに。

「……なる、み」

「流石だねえ雷堂ちゃん、並の奴じゃその反応は無理だよ。ま、そこで殺気出さずに撃ち抜いてたら完璧だけど」
 視界の真ん中に、鳴海がいる。
 あーでもそしたら私は生きてないなあ、軽い言葉をいくつも零して笑う鳴海の体勢はほんの少し前と変わっていない。ただその左手に握られているのは銃だ。そして雷堂が愛用しているコルトM1877の照準は確実に鳴海へ定められていた。
 銃口と銃口の間に流れる空気は決して心地良いものではない。そこへゆるりと煙を吐き出すと、鳴海は銃を組んだ脚の上へ放り出した。雷堂は動かない。動けない、と表現する方が正しいのかもしれなかった。
「お前には言っておく方がいいのかもしれないなあ。なあ雷堂、どうしてお前には帝都で後見人が必要なんだと思う?」
「我が未成年であること。道を外さぬようにという監視。それと、探偵という職は帝都守護に都合がいい。我はそう思っている」
「ん、まあだいたい正解だろうな。私もカラスに直接聞いたわけじゃないが同じ意見だ。もうひとつだけ深く考えようか雷堂。なぜ後見人が私なのか?」
 言って鳴海は新しい煙草をくわえると火をつけた。手慣れた動作で熱が灯り、役目を終えたマッチ棒が灰皿へ投げ込まれる。雷堂が掃除したばかりのそれは底面が綺麗に見えていて、カツ、と棒が端から落ちて固い音を立てた。鳴海の目はまっすぐに雷堂を見ている。口元だけで笑う鳴海を今まで見た事があっただろうか。沈黙が銃を下ろせと漸く雷堂に告げ、雷堂は逆らわずに愛銃をホルスターへ仕舞った。
「…………」
「私は悪魔を見聞きできても封魔はできない。デビルサマナーとしての能力はないし、体力や腕力だってお前にかなわん。当代様に比べりゃ弱っちいただの人間で、お前ができることはひとつも私にはできない。だがな」

 背後で生まれた破壊音、頬で線状に感じた熱風、響く銃声。雷堂が感じた順は全て実際とは逆なのだろう。あのぞっとするような殺気は微塵も感じないまま、動けずに雷堂はただじっと鳴海を見ていた。目の前の人間が銃を取りこちらへ向かって撃ったはずなのに、背後へ着弾するまでそれが理解できなかった。鳴海を見ていたはずなのに。口元は笑んだままで告げられる言葉は本当に鳴海のものなのか。

「覚えておけ。『葛葉雷堂ができないこと』全てできるのが」
 ふ、と鳴海の目元がゆるむ。少し眉を下げ笑うのは雷堂が好んでいた笑い方のはずだ。

「──『鳴海』なんだよ」

 あー疲れた、柱に埋まっちゃったよなあここ賃貸だけど…まあいいか。欠伸まで零し、鳴海は椅子にその身を沈めると今度こそ机の上に銃を投げ出した。
「腹減ったなあ、お茶にする?雷堂ちゃん珈琲……いや、いいよ、私がやろう」
「…我がやる」
 気圧されたと鳴海にはバレているだろうけれど、と雷堂のそれでも虚勢を張った言葉はあっさり撥ね付けられた。
「いいよ。私がやった方が美味い」
 にやにや笑いながらのからかいにかっと血が上る。雷堂自身は常に物事には冷静にあたろうと努めているし、捜査で聞き込みをする時にはそれなりに実践できているはずだ。なのに、何故か鳴海に対しては感情の沸点が酷く下がってしまう。
「、我は書生だ、我がやる!」
「そ。ならよろしく〜」
 足音も荒く台所へ向かう雷堂を見送って鳴海はひらひらと手を振った。そして自分を見つめる緑色の瞳へ困ったように笑う。
「なあに、業斗さん」
『…俺から何か言うのは遠慮しておこうか。あれの矜持やらを砕いておく必要はあったと思うしな』
「そう言って頂けると助かっちゃいます。結界も…おかげで銃声が漏れなかった」
『気づいていたなら結構。柱は俺の力ではどうにもならんぞ』
「まあどうにかしますよ。威力の低いやつだし、それより、えーと、その」
 頬を掻く鳴海に猫の声でにゃあんと鳴くと、業斗は尻尾を揺らしながら台所へと姿を消す。どうやら言葉の先を察してくれていたらしい。
「子供の面倒ってのは大変だね。おとーさんが居てよかった」
 鳴海の言葉は一人きりの部屋にぽつんと落ちて転がり、すぐに消えた。


『小僧』
「………」
 黙々と作業を続ける雷堂からの答えはない。ケトルを火にかけてじっと見つめている。ホーロー製のそれは真っ白な表面に控えめに花が描かれている少し少女めいたものだ。新しいものばかりの鳴海の持ち物の中で、数少ない女子らしいものだと雷堂は常々思っていた。ひょっとして銀楼閣に備え付けのものなのかもしれない。
『人間に威圧されたのは初めてか。当代雷堂も人の子というわけだな』
「………叱責なら後で聞く。我は珈琲をいれねばならない」
『まあ聞け。責めているわけではないのだからな…里にいればこういった事態は小僧に訪れなかっただろうよ、大した収穫だ。我らが討つのは悪魔だが、守るのは人だ。お前は当然それを知っていただろう』
「………」
 しゅ、と僅かにケトルの先から湯気が昇った。
 魔を討つ。人の世の安寧のため。里で叩き込まれた教育は葛葉の思想そのものだ。魔は敵であり使役するものである。ただただ修行に明け暮れる以外になかった日々は楽とは言えないが、不満があるものでもなかった。雷堂候補に挙げられてからはより修行も過酷なものにはなったが、衣食住に関しては保証されていた。おかげでそう言ったことを自分でするという概念すら雷堂にはなく、探偵社に来た当初は酷く苦労したものだ。今でも特別に上手いというわけではない。鳴海もからかいはするが文句も言わず受け入れている、というのが現状だ。
 人間と触れ合う事があまりないまま受けた帝都守護の任に、不安がなかったと言えば嘘に鳴る。ただ、表面には出さないまま戸惑うばかりの日々の中、出会う人々はだいたいがあたたかい人たちだった。鳴海が連れ歩いてくれたからかもしれない。雷堂の出会う人は大抵が、様々な形を取ってはいたが鳴海のことを良く思っている人ばかりだったからだ。
 時折理解のできない人間もいたが、そういった類いの人間は鳴海自身も嫌っているか、雷堂と対峙したとして相手にもならないような弱者ばかりだったので歯牙にもかけなかった。そう判断できる頃にはすこしばかり世間体というものも学んでいた。だから。
 人間を守る己が、守護すべき人間に恐怖するなど想像もしなかったのだ。
 任を全うするうちに死ぬ事さえ怖くないと思っていたのに、人間という存在が、あんな悪魔よりもある意味恐ろしいものを発するなどと、誰も教えてくれなかった。
 守るのは人。知ってはいたのだ。知ったつもりになっていたということなのだろうか。
「業斗」
『なんだ?』
 しゅ、しゅ、と沸いた湯が雷堂に次の動作を促す。カップとソーサーを棚から取り出しながら、雷堂はぽつりと呟いた。
「我は未熟だな」
『は、当然だ』
 黒猫はふらりと長い尾を揺らすと先端で雷堂の足首辺りを撫ぜた。制服のやや厚い布地越しでも感触は雷堂に伝わる、その頃には四つ足が全て事務所の方へ向かっていた。
『葛葉雷堂の名、小僧程度が簡単に負えると思うな。…そうでなければ俺も鳴海も今ここにはおらんだろうよ』
 俺の分には砂糖を頼む、とわざとらしい甘えた鳴き声まで出して去っていく。黙々と手は動かしながら、雷堂は慎重に作業を続けていた。初日に鳴海が教えてくれた順番を注意深く守る。いつもやっていることなのに、それでも鳴海がいれるものと味が違うのは経験の差以外に何があるというのだろう。

「我は未熟だ」

 もう一度だけ繰り返し、用意した珈琲の他にミルクを張った皿を盆へのせる。小さな嫌味程度にばしゃばしゃ砂糖を加え、雷堂は上司と目付けが待つ事務所へ歩いていった。

 ゆら、とケトルの先から僅かにだけ零れた湯気が窓からの風で四散した。



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20090416

雷堂はプライドが高いと思います。
そして人間の悪意には慣れてない坊ちゃんだとも思う。