たまに夢を見る。
 やわらかい夢だ。
 縁側から小さな庭が覗く和室のあたたかな空気。
 長い黒髪を柘植の櫛で梳く女の姿。椿油で丁寧に手入れされている櫛は飴色に光る。細かな桜の彫りが散る櫛に沿えられる指先は白くて細い。長い髪を何度も何度も、ゆったりとした動きで梳くその人の背にはもうひとり男が座っている。どちらもとてもやさしい人だった、と。自分は知っている。
 骨張った肉厚の手がそうっと伸びて黒髪をひとすじ指に絡める。女は髪を梳くことに集中していて気づかない。男はちらりと女を一瞥し、指先で幾度かそっと黒髪を愛でる。戯れにか持ち上げて唇を押し当てると、流石に女が触れられていることに気づいたか振り返る。振り返った時にはもう黒髪は女のものになっていたから何をされていたかはわからないのだろう、なにかありましたかと女を見る男に問う。いや。短い返答に女は気を悪くした様子もなく、そうですか、と控えめな声で笑った。笑う目元や口元の皺が男に刻まれているものと大差ないから、二人はきっと長い年月を共に過ごしたんだろうと知れる。そうしてまた、女は髪を梳く。
 やわらかい夢だ。
 たぶん、昔見た光景。だけどほんとうに昔の、大部分を忘れてしまった頃の記憶だからひょっとして間違っているかもしれない。ただ間違っていたとしても自分の感想はかわらない。

 あぁ、なんてうらやましいんだ

 その感情を、二人とも、だけに向けていられたら良かったのに。
 なんで あたしは








「只今戻りました。……所長?」
 つかつかと足音も高らかに廊下を進み、事務所のドアを開けた雷堂を迎えたのは無人の安楽椅子だった。ぐるりと見渡せば来客用のソファに沈んでいる身体が見える。穏やかな寝息まで聞こえてきてやたらと気持ち良さそうだ。季節が良いから確かに昼寝にはもってこいだろう。
『ほう、一応報告書は仕上げてあるのだな。ならば制裁は止めておいてやるか』
「止めなくてもいいのではないか。職務怠慢だぞ」
『俺はこう見えて女には甘いんだ。小僧のように全部をひっくるめて同じようには扱えんさ』
 鳴海が惰眠を貪っているのに気づいた途端タイプライター前へ駆けた行動のどこが甘いというのか。思いはしても口にすれば何倍にもなって返ってくるのが容易く想像できてしまい、雷堂は無言で装備を外し始めた。今日はもう外出予定はない。外に出るとすれば夕飯の用意に足りないものがあった時ぐらいだろうか。買い置きのものだけで済ませることはできるから、業斗に魚が食べたいとでも言われない限り大丈夫なはずだ。
 ざっと頭の中で献立を決め、支度をするかと袖を捲ったところで業斗が雷堂を振り返った。緑色の瞳は鳴海をちらりと見てから書生に向かう。
『小僧』
「何だ」
『俺は少し出てくる。夕飯時には間に合うか…微妙なところだ。鳴海と先に食っておけ』
「承知した。今日は魚はないからな」
『…遅くなっても気にするな。一応言っておくが、あれを襲うなよ』
 あれ、と表現されたものが何かわからず雷堂の時が止まった。しかし一瞬後には顔が真っ赤に染まる。
「業斗!」
『何、化け猫のくだらない冗談と構えればいいものを。ではな』
 小僧にそんな甲斐性などないだろうよ。かかか、とご丁寧に猫の口を開けてまで笑いながら去って行く業斗に学帽を投げつけるが当然のごとく避けられる。跳ねた鼓動を押さえつけて学帽を拾う頃には業斗は気配ごと消えてしまっていた。
「……っ、全く、何だというのだ」
 雷堂の知らないところで何があったのかは知らないが、どうやら当代雷堂の目付けは監視役をそこそこ気に入っているらしい。自己申告通り女だからというのが理由なのかはわからないが、そこから派生して雷堂をからかうようになったのは非情に迷惑だ。男女の仲だとか色恋の部類に弱い、という自覚はもちろんある。あるけれどどうしたら強くなるのかだなんて考えるだけで無理なのだ。何故だか女学生に告白だなんてものもされるけれど、こればかりはどうしようもないと思っているし、まあ若いんだからぼちぼちね、と鳴海が言ってくれたことに安心したのも確かだ。
 襲うなよ。そんなことできるわけがない。
 だいたい何で自分がそんなことをしなければいけないのか。
 ぶつぶつと心中で文句を言いながら学帽を帽子掛けにひっかけ、もう一度鳴海を見ると変わらず眠りの海に沈んでいた。仰向いて眠る、その片腕がだらりとソファから落ちている。起こすかどうかを判断する為に雷堂はソファの横に膝を付いて鳴海の顔を覗き込んだ。眼鏡をかけたままで眠っているせいでフレームに邪魔され、よく見えなかった部分を注視してそっと息を吐いた。どうやら朝に見かけた隈はどこかに消えたらしい。
 だらしない所長。そんなことは帝都に来てから嫌という程実感したけれど、本当に全てがそうか、と言われたなら雷堂には答えられない。よくわからないのが本音だ。仕事をせずにぐうたらと過ごす姿、近所の頼まれごとを軽口を言いながら引き受けこなす姿、たまにある本来の探偵業へ向かう姿、そして一度だけ見せた恐ろしさ。お帰り、といつもの椅子で笑う姿。
 よくわからないけれど、たぶん、帝都で出会えたのが鳴海で良かったと思う。本人には口が避けても言わないとしても。
「…ん」
 鳴海が身を捩って何事か呟いた。起きるかと様子をうかがえばどうやら単に動いただけのようで目覚める気配はない。
「…しょうがない奴だ」
 朝、出かける前に見た鳴海の目元にはうっすらと隈が浮かんでいた。なにやらごそごそと事務所で作業しているようだったからあまり眠っていなかったのだろう。寝入る顔に毒気を抜かれて、もういいか、という気になる。業斗が居たなら起こしていたかもしれないが黒猫は不在だ。
 そう思えば眼鏡が気になって、雷堂はそっと弦を掴むと引き抜いた。高い眼鏡だと鳴海が言っていたのを覚えていたし、鳴海の気に入りであることを知っている。寝返りを打った時にでも歪めてしまうかもしれないし第一寝にくいだろう。
「んぅ」
「、」
 細心の注意を払っても刺激になったのか、鳴海の瞼がぴくりと動く。動かなければ目覚めないかもしれない、と息をひそめていると鳴海がゆっくり目を開いた。寝起きのせいか瞳の焦点が甘い。
「所ちょ、」
 起こしてしまったなら、と呼びかけようとして雷堂は固まった。これは誰だ。鳴海だということはわかり切っているがこれは誰だ。この、女は誰だ。
 鳴海がふわりと笑った。それは見たこともない、それでも雷堂が今まで他の人間に、女性に数多く見てきた表情だった。笑顔でなくても瞳と空気で知れる。ふわふわと甘い菓子のような、それでも熱のこもったもの。雷堂が何度も見てきた、必死なのだとわかる態度で恥ずかしがりながらも手紙を渡してきたりその場で告げてきたりする女子達と同じ、
 ――恋する女の顔だ。
 見入っていることすら気づけなかった。鳴海は雷堂を見ている。とろりとした目のまま見ている先を漸く理解した雷堂の手に鳴海が自らのそれを沿えて口を開いた。何でもないことのはずなのに、ちらりと見えた舌の紅さにわけの分からない波が全身へ走る。

「ーーーーさん」

 視界が赤く染まったような錯覚がして、雷堂は初めて自分の意思を無視する衝動というものを知った。きぃんと耳鳴りがして気づけば元々近かった鳴海との距離は零になり、覆い被さる形でくちづけていた。やわらかいなと頭の片隅が判断する一方で何故だろうと考え、思い至る。そうだ、口を塞いでしまいたかったんだ。もうそれ以上何も言うなと。鳴海に抵抗の様子はない。雷堂がくちづけているというのに。そう、くちづけて。
「――ッ!」
 雷堂はばっと身体を離すと膝立ちのまま後ろへ何歩か下がった。がた、と机にぶつかって派手な音を立てる。遅れて心臓がばくばくと音を立て血流を駆け巡らせた。今、自分は何をしたのか。わかってはいるけれど認められない。
「ん……、雷、堂?」
 物音のせいか今度こそ覚醒したらしい鳴海が欠伸混じりに声をあげた。あぁすごい寝ちゃった、ごめんねえ、そんでお帰りーと言いながらだらだら起き上がる。
「…起きたならばちょうどいい、夕飯の魚を買い忘れたので出てくる」
「りょーかい、私は鰯がいいなぁ」
「安ければな」
 眼鏡は飛び退いた際に鳴海の身体の上に残してきたので既に鳴海自身の手で再び装着されている。それだけ確認すると雷堂は最低限の装備と外套を身に着けて足早に事務所のドアをくぐった。いってらっしゃい気をつけて、と暢気ないつも通りの声が背にかかる。階段を下りる間はどうにかいつも通りの歩調で歩き、銀楼閣を出たところで耐えられないと走り出した。そうしないと叫び出しそうだった。

 町内を駆け抜け、日も暮れ始め人気がない多聞天に飛び込むと雷堂は外から見えない位置でしゃがみこんだ。まだ心臓は暴れている。そんな調子で全力疾走したからか、異界でもないのに久々に息が切れた。
「……っ、なんだと、いうのだ」
 制服の左胸辺りをぐしゃりとつかむ。皺が寄るだけでもちろん動悸が治まるはずもない。
「なんだ、とっ…」
 鳴海はいつも新しい顔を見せて驚かせてくれる。人間にはそんなにも表情の種類があるのかと驚いたほどだ。それでも、さっきの顔は。思い返してまた頬に熱がたまる。恋だなんて自分には訪れる隙がないと雷堂はずっと思っていた。葛葉雷堂として生きれば弱みともなる立場に大事な人間を置けるはずがないとそう思っていたし、恋するという感覚もわからなかった。ただわからないからこそ、このひとは恋をしているのだと判断するのがうまくなった。自らにはない恋の気配はわかりやすかったからだ。
 恋と鳴海は雷堂の中で結びつくことはなかった。鳴海も生きているのだから恋愛をするのが当然だというのに、鳴海は「所長」であり「女子」であったけれど、あんなとろけた目をする「女」ではなかった。
「……」
 それでも。
 あの瞳の先に居るのが自分だと、そう思った時に感じたのはなんだ。鳴海が見ているのが雷堂だと思った時に自らに訪れた感情は、歓喜ではなかったか。雷堂へ思いを告げる女学生達には決して抱かない感情がそこにはあった。そして、次いで鳴海が零した名前に絶望した。雷堂ではない名前のその人物が間違いなく鳴海の想い人なのだ。あの瞳の先にいるのはその人物なのだ。鳴海の恋情を受けているのは。
「なんで」
 衝動でくちづけた。感触はまだ唇に残っていて、思わず手のひらで覆う。自分にこんなことができると思っていなかった。
「我では」
 気づきたくなかった。せめてこんな形でなかったら。後悔などするのは初めてじゃないだろうか。しかも望みがないうえにどうすれば良いのかもわからない。こんな時にそっと導いてくれたのはいつも鳴海だったから。こんなことを業斗には話せない。
「ない、のだ」
 初めて知ることが多過ぎてぐるぐると身体の中で渦巻く。
 立てた膝に顔を埋め、雷堂はゆっくりと息を吐いた。
 買い物に出たのだから不審に思われない程度の時間で帰らないといけない。わかっているのに平静ではいられず、集中の呼気を繰り返す。
「なんで…」
 息は整っても感情を鎮めることは叶わない。

  ―― ムナカタさん

 甘えた女の声が頭で反響してばかりで泣きたくなった。












 ひさしぶりにやわらかい夢を見た。
 美化されている気もするけれどしあわせの記憶だ。
 しあわせの記憶であり、絶望の記憶でもある。 
「昔の話だってのに」
 夢はくるくると変化したけれど、起きて側に居たのが雷堂ですこし安心した。こんな夢を見た後にひとりでいるのは正直つらい。一度死んだ身でも結局何も変わらないということだろうか。
 癖毛をくしゃりと掻き揚げて、鳴海は奥の窓まで移動すると煙草に火を付けた。今までなら佐竹のところへ転がり込むかミルクホールへ足を向けるか、という手段をとっていたけれど今は必要ないだろう。ここから見下ろせば商店街が見える。あちこちの家や店から漂う夕餉の香りがやわらかく暮れに溶けていく。
「……早く帰ってきてよ、雷堂ちゃん」

 黒尽くめの姿が角を曲がってその身を現すまで、鳴海はぼんやりと窓からの景色を眺め続けていた。









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20090423

雷堂自覚物語。
鳴海さんはずっと引き摺る人だと思う。