「……?」
 ふと覚えた違和感に雷堂は空を仰いだ。銀楼閣を出た時と同じく陰影の深い雲を浮かべた青空は目に染みるようだ。朝方一緒に銀楼閣を出た鳴海が肌など殆ど露出していないのに、あーこれは焼けちゃうかもなぁ、と一人ごちていたのを思い出す。帽子を被り直した鳴海は丑込め返り橋の辺りでひらひらと手を振って雷堂の前から消えてしまった。恐らくは駅へ向かったのだろう。行き先を告げずにどこかへ行ってしまうのはいつものことだ。どうせ聞いてものらりくらりと躱されると気づいてからは問うことも無くなった。
「業斗」
『ほう、小僧も気づいたか。異界ではないようだがこの揺らぎは…』
 筑土町で大道寺関連の聞き込みを一通り終えて昼食をとろうかと思い至ったところだった。ぴくぴくと動く業斗の髭を見ながら感覚で違和感の正体を探る。
『…多聞天、のようだな』
 業斗の見解は雷堂と一致したものだ。それに雷堂よりも遥かに永い時を生きているらしい先達の言葉を疑うはずもなく、ひとつ頷いて多聞天へ足向けた。
 真昼の多聞天は太陽の光を弾く石畳が目に眩しい。さわ、とどこかの木が風に煽られて葉擦れの音を立てる。いつも通りの情景に目を細めると、瞬きの間に異質な黒が当然のようにそこへ現われている。揺らぎの元凶かと注視した先にあるのはあまりにも見慣れ過ぎた姿だ。いや、見慣れているのは当たり前なのだが。
「…なるほど。ということはあんたがこの世界の十四代目なんだな」
 自分と同じ顔をしているのに傷がない書生は目を合わせた途端にそんなことを言い、返答できずに固まる雷堂の目を見据えてから流れるような動作で頭を下げた。
「すまないがこれから世話をかける。とりあえず志乃田に行くのが手っ取り早いだろう。同行してもらえないだろうか、ああ申し訳ない挨拶が遅れた。俺はここと異なる時空の十四代目。十四代目葛葉ライドウだ」
 固まった自分の呪縛を解いたのは業斗だった。
「確かに妖しの部類ではなさそうだな。小僧、先ずカラスに指示を仰ぐのが最善というところは俺も同じ考えだ。……彼らに敵意はないようだが、」
「業斗?」
 不自然に言葉を切った目付けに、その視線の先を追えば葛葉ライドウと名乗った書生の足下にもまた黒猫が控えている。同じ黒い毛並みと緑の瞳がすいと細められ、つい目が離せなくなったところでライドウが動いた。
「…こちらも俺の知る筑土町と造りは変わらないようだ。行こう」
『緋人』
 雷堂の返事など待っていないかのように一歩目を踏み出したライドウに置き去りにされる態になった黒猫が声をかけた。猫の声とは別に頭へ響くこの感覚は業斗のものと同じで、異なる時空というものが本当ならこの黒猫もまた業斗童子なのかと雷堂は思う。
『逸るな』
「ゴウトさん、でも」
『俺達の事情ではそうだろうよ。だがあちらは巻き込まれているだけだということを忘れるな』
 く、と息を呑む音が雷堂にまで届いた気がする。見遣る先で黒猫はゆったりと歩みを進めて雷堂と業斗の前で座り直した。
『若輩者が失礼した。こちらにも多少の事情があってな、元の時空に戻るためには貴殿らの協力が必要になる。申し訳ないが手を借りたい』
「…貴様らの正体が何にせよ、我に判断ができる問題でもないようだな。我も業斗と同じ意見だ」
 業斗の言うことには信用がおける。
 続けた雷堂の言葉に黒猫は僅かにだけ髭を振るわせ、ライドウへ向かってぱさりと尾を振った。立ったまま呼気を整えていたライドウは最後に大きく息をつくと学帽の縁に手を遣り、すみませんと呟く。それは雷堂にかけられたものか黒猫にかけられたものか雷堂にはわからなかったが、再度視線を合わせてきた瞳に浮かぶ焦燥は幾分薄れたようにも思えた。

 向かった志乃田でヤタガラスの使者はライドウとゴウトを彼らが言う通りの存在だと認め、時空を超えた移動に必要な秘宝「天津金木」を手にするための試練を課した。試練の内容は雷堂には知らされなかったが、ヤタガラスが秘宝と呼ぶからにはそれなりに過酷なものであるはずだ。異界から名もなき神社へと傷付いた身体が現われる度、この身に関係なくとも挑んでみたいものだと思う。境内へ続く小道で腕を組む雷堂の心中を察したのか足下で業斗がなぉんと鳴いた。
「わかっている。あれはあちらの十四代目に課されたものだ」
『ならいいさ』
 それに。
 続けて零しかけた言葉を飲み込み、雷堂は神社へと目を向ける。先程三つ目の試練へと向かった背中の幻影をそこに見てぎり、と歯を食いしばった。
 ──ケルベロス
 涼やかな声に導かれて現われた白銀の獣。胸に付けた封魔管の中でオルトロスが眷族に気づいてその身を振るわせたから間違いではないだろう。主の前でぐるると喉を鳴らした獣は耳の付け根をライドウに擦り付け、細い指が毛並みを梳く感触を享受しているようだった。
 自らが使役するオルトロスにも似た、それよりももっと甘えた態度に愕然とした。高名な悪魔であるケルベロスはもちろん知っていたけれど、懐く猫のような態度を見せるなど思っていなかったのだ。雷堂が今まで赴いたことがある地に白銀の悪魔が現われたことはない。今もしケルベロスを封魔しろと言われたところで叶わないというのが現実だろう。討伐できればいいところだ。それぐらいを判断できる目は持っているつもりだ。それに、よくよくライドウを窺えば身につけている装備も自らと同じではなかった。
 一度そんな目で見れば最初に見せた焦りなど嘘のように、ライドウは全てが格上のデビルサマナーだった。やわらかな物腰や比べれば丁寧な言葉は違う人間だから当たり前だとしても、同じ「十四代目」だというのに──この差は、何だ。
 我に何が足りない。
 彼が時空の違う己だというなら、些細な違いはあっても葛葉の里で修行を積み襲名の儀を終え、帝都に派遣されたのだろう。何が違う。
 何が。
「らーいどお」
 堂々巡りを続ける思考を遮ったのは気の抜けるような呼びかけで、まさか、と振り返る雷堂に上司が別れた時と同じくひらひらと手を振っていた。汗ばむ陽気に耐えかねたのか上着を片腕に引っ掛けたベスト姿は探偵事務所の外では珍しい。
「よ。怖い顔しちゃってどしたの?」
「どうもしない。それより所長が何故此処に居るのだ」
「んー、階段つっかれたー」
 言って鳴海は欠伸を零すと思い切り伸びをしてから脱力した。ぱきりと関節の鳴る音が雷堂まで聞こえてくる。日頃出歩かないからだ、不摂生は身体に悪いと忠告しようとは思っても、伸びた時に衣服越しに知れた身体の曲線や力を抜いた際に漏れた吐息にひととき感覚を奪われて雷堂は何も言えなくなった。想い人が側に居るというのはうれしいが少しの疎ましさもともなう、とは最近になって初めて知ったことだ。
 ごほん、と咳払いして浮かぶ不埒な考えを吹き飛ばす。今はライドウを待つ身とはいえ、そんなことに浸るようでは帝都守護が勤まるはずもない。
「所長」
「なんだよおっかない顔するなって。あ、でも眉間の皺は減ったかな。おつかいだよ、煙草屋のばーちゃんの代わりにお参りってなもんだ」
 末の娘さんにも子供ができるんだってさ、もう孫は二桁目じゃないのかね。
 煙草を口に銜えた鳴海はそんなことを言い、慣れた手つきで火を付けた。立ち上る紫煙は近くの枝へ触れる前に風で拭われていく。
「なにもここへ参らなくても良いだろう」
「私もそう思ったんだけどな、まあなんというか…桜田山が安産に特別効くってわけじゃなし、未来を背負う子が生まれるのは帝都の繁栄に必要なことだろ、まァいいかってね。そう考えれば一番効きそうな気もするし」
 まだ神前までいくらか距離があるまま、鳴海は二拝二拍手一拝とそこだけ作法に則った。銜え煙草のままというのは存分に不敬のような気がするが、向こう側にいるのがヤタガラスである以上何か言うつもりはない。参拝と言うよりはただの願いとして、健やかな子が生まれるように、と雷堂も神前へ向けて学帽の縁を引いた。煙草屋の女主人は鳴海には言葉が厳しくとも雷堂のことは気に入ってくれているようで、度々菓子を馳走になっている。
 顔を上げて鳴海を見ればやさしい目が雷堂を待っていて、思わず鼓動が跳ねた。
「元気な子が生まれるといいよな、あのばーちゃんにはさんざ怒られるんだろうけどさ!前も孫に拳骨くらわしてんの見たけどすごい痛そうでどの子もびぃびぃ泣いてた。こどもはそれが仕事なんだけどなぁ。いいよなああいうの」
 ふ、と目を細めた鳴海は大きな煙の輪を吐き出すと、抱えていた上着を持ち直してくるりと振り返った。左の下腹辺りにやった手はベストの裾を一度引っ張って皺を整え、また上着を掴んで治まる。
「おつかい完了。私は戻るからなんかあるんなら頑張れよ」
「…、所長」
「ん」
「……」
 歩き出す鳴海の身体越しに紫煙がたなびいているのが見える。ひら、と振られた手のひらはいつも通りだ。
「…今日は遅くなるかもしれん。すまないが夕飯はご自分で調達してくれるか」
「りょーかい。んじゃ」
 長い階段を下りていく姿が見えなくなるまで見送って、雷堂はふと息をついた。いったい何を言おうとしたのか、鳴海を前にわからなくなることがよくある。異なる時空のライドウがいつここに戻ってくるかは不明だが傷付きながらも大した時間はかけずに試練を成し遂げている彼のことだからそう先のではないだろう。鳴海なら「異なる時空」という雷堂にはやや受け入れ難かった話をあっさり受け入れそうだが、巻き込まないためにもこの場に居てもらわない方が好都合だ。なら呼び止めたところで益などない。事の次第は終わってからの報告で十分だろう、只人の鳴海に打てる手はないのだから。頭の中で言い訳めいた言葉を並べて自らを納得させ、雷堂は再度名もなき神社へ目を向けた。
「彼は」
『小僧』
「いや、すまん。我が未熟なだけだ」
『それはまたしおらしいことだな』
 腕を組み木に凭れた雷堂の足下で業斗が香箱を組んだ。さわ、と再び葉擦れの音が耳に付くようになる。どこか木々の奥深くでヂィと鳥がさえずった。
 以前は沈黙など辛くなかった。むしろ無駄なことを喋らずにすむのでありがたい、とすら思うものだったのに、今この沈黙は辛い。話したいわけではない。
「……」
 帝都に来てからこちら考えることが多過ぎる。考えても答えのないことが多過ぎる。役目のことならば自らの精進でどうにでもなるのに。こんな沈黙は頭の中だけがぐるぐると忙しなくて落ち着かない。
 そういえば、あちらの十四代目に付いた目付けはどうやらライドウを真名で呼んでいるようだった。なにかしらの取り決めが彼らの間であったのだろうか。
「……」
 ほら、くだらないことばかりが頭を占める。
 声には出さず呟いて雷堂は瞳を閉じた。

「俺が居ない間にあの人が来たのか」
 がたん、と列車の揺れに身を任せていると横に座るライドウがそんなことを言い、雷堂は一度息を呑んでから己によく似た姿を見た。志乃田で乗り込んだ乗客は二人と二匹で異界とはいえ貸し切り状態だ。鳴海が去ってから半刻程で葛葉ライドウは神社に姿を見せ、少しばかりの時間も惜しいとこうして筑土町へ向かって揺られている。
 あの人という言葉が指す人物はわかりきっているものの、雷堂にはできそうもない呼び方が些か癪に触るのはどうしようもない。
「何故そう思う」
「いや…こっちの鳴海さんも銘柄が同じなんだろう、匂いが」
「ああ」
 合流した時ライドウは何かに気づいたようなそぶりを見せていた。あれは鳴海の残り香に反応してのことだったのだろう。
「鳴海さん、か。我と貴様が同じようで違うのだからそんな違いもあって当然なのだろうな」
「え、こっちじゃ『鳴海』さんのところで世話になってるんじゃないのか」
「……おそらくだが、どんな時空であっても当代の監視は『鳴海』という人物だろう。そこではなく…我は所長と呼んでいるのでな。些細な違いだが」
 勢い込んだライドウへ素直に告げるとそうか、と呟きが返された。雷堂の頭を過ったのは監視対象へ銃口を向けて笑った鳴海の姿だった。このライドウはあんな風に鳴海と対峙したことがあるのだろうか。ひょっとしたらないのかもしれない。彼が鳴海の名を口にするとき見せるやわらかさは鳴海の笑顔にも似ていた。それがまた小さな苛立ちの種になる。
「ああ成る程。そういう違いはたくさんあるんだろうな、まずここは俺がいたところより少し時間が遡っているようだから」
 多聞天へ姿を現す前に筑土町をひとまわりしたのだとライドウは言った。町の造りは変わらなくてもそこに生きる人々には違いがあるらしい。
 電車がゆるやかなカーブを進んでギイと身を軋ませた。夕焼けも近い空が窓いっぱいに広がっている。明日も天気がいいに違いない。空気は夏の匂いを含み始めている。
「あまりこっちへ干渉しない方がいいとは言え、鳴海さんに会ってみたかった」
「会っておもしろいこともないだろう。酒を呑み博打で遊び仕事をせずに寝ている我が所長様だ、そちらの所長はそうではないのか」
「まあ否定できないけど」
 雷堂もライドウも背を伸ばして座席に座ったまま、窓の外を見ている。笑う気配が声に滲んでいてなんとなく面白くなかった。
「でも。やさしいだろう」
 おかえり。
 ライドウの言葉で呼び起こされた記憶は事務所の扉を開ければいつでも見ることができる光景だ。真っ正面奥、二つの窓を背にして、安楽椅子に身を預け所長机の向こうで笑う鳴海の姿。彼に言われるまでもない、確かに鳴海はやさしい。だからこそ。
 酷く丁寧に呟かれた言葉は淡々と車内を転がっていった。
「はやくあいたい」
 組んだ手の上に額を乗せ、祈るような仕草でライドウが言う。
 俯いた横顔が自分と同じはずなのにきれいなもののように見えて、傷の違いだろうかと考えてから誰にともなく首を振った。おそらくこれは内面の問題だ。そして同時に、出会った時の焦燥の原因を知った。薄れたように思えていた焦燥はライドウの自制の賜物なのだと掠れた語尾が示している。ライドウの境遇に置かれた時に自分がどうなるのか雷堂にはわからなかった。同じような自制ができるものだろうか。同じような。
「なんだ」
 唐突に訪れた感想はそのままするりと雷堂の口を滑り落ちた。
「貴様は所長に懸想しているのか」
「正確に言えば俺の世界の鳴海さんに、だけど」
 拍子抜けするほどあっさりとライドウが肯定の言葉を吐き、雷堂と視線を合わせた。照れも何もなくただ当然だと言わんばかりの様にいたたまれなくて目を逸らす。
「あんたは違うのか」
「我は」
 どう言えば良いのかわからないのが正直なところだ。想い人であるのは確かでも胸中を晒すことには照れがある。そんなはずはない、と語る目がまっすぐで痛い。
「いや、ごめん。あんたが俺で「所長」が鳴海さんなら…そうだろうっていうのは、俺の我侭だな」
「……我侭ではないだろう。貴様が我なら我でもそう思う。ただ、我は添い遂げられそうもないから情けなく思っただけだ」
「そりゃそうかもしれないけど、でもそこは問題じゃないだろ」
「大問題だ。……戀など知らんとあれほど思っていたというのに、何故我は一回り以上も年上の、想い人までいる得体の知れない女に惚れてしまったのか」
「はあ!?」
 耳元で思い切り叫ばれて思わず耳を押さえる。直後ガタンと大きく揺れて列車が止まった。いつの間にやら話し込むうち筑土町に着いたらしい。とりあえず駅を出る間じっとライドウの視線は雷堂へ向けられている。
 何か不興を買っただろうか、と今までの会話を思い出しても恥ずかしいばかりで特に怒らせた感触もない。あんたが俺で所長が鳴海なら。そんなことを言った彼は正しく異なる時空の「我」なのだと漸く納得し、違う人間でも同じ自分なら理解してくれるだろうという甘えも含めて泣き言を言ったまでだ。雷堂も自覚している情けなさが彼には気にくわなかったのか。それならしょうがないと思う。
「…もういいだろう、睨むな。秘術を執り行うぞ」
「ああ、頼む」
 丑込め返り橋の筑土町側に胡座を組み、一度外套を払う。ライドウが天津金木を持つことを再度確認してから両の拳を地へ付けた。

 トホカミエミタマ トホカミエミタマ

 身を起こし印を組めばがくん、と身体にかかる重力が何倍にもなった感覚がする。術の行使にこれほど力を必要とするのは初めてではないだろうか。
 あいたい。
 あの切な願いを叶えるためには全力を尽くしたい。
 彼がライドウで所長が鳴海であるならば。

 アハリヤ アソバストマウサヌ アサクラニ
 イブキドヌシトイフカミ オリマシマセ

「……独り言だと聞き流してくれ。自分相手に言うのは独り言だろ?」
 ふ、とそんな声が耳に入った。見ればライドウが僅かに口の端を持ち上げている。
 浮いた天津金木を見る目には押し殺した熱が篭っていた。

 ヒフミヨイムナヤ コトモチラロネ
 ヒコミヒコト
 カシコミ カイコミモ ハクス

「まずひとつ誤解を解いておきたい。俺はあの人を、そうだな、たぶん愛しているけれど相愛じゃないからあんたが羨むことはない。むしろこっちが」

 フルベ ユラユラト フルベ

 天津金木が輝きを放つ。ライドウの足下に生まれた影がゆら、とイキモノのように伸びた。影であり陰であるものは不安定に橋へ懐く。

 ヤシホヂノシホノ ヤホアヒニマス
 ハヤアキツヒメトイフカミモチカカノミテム

「いや、俺も羨むことじゃないか。俺が好きなのは俺の、男の鳴海さんだから。…急かして悪かった。異なる世界も二つ目だと流石に焦るみたいだ。確かに一度目の俺の心は揺れてたんだろうけど」

 カクカカノミテハ イブキドヌシトイフカミ
 ネノクニ ソコノクニニ イブキハナチテム

 光が増し、雷堂にかかる負担も一層増えた。
 印を保つために込める力で腕が震える。

「今度こそ鳴海さんのところに帰る。…協力感謝する、葛葉雷堂」

 ハラヘヤレ ハラヘヤレ

 向けた指先にライドウが目を見張り、影に引きずり込まれてその身を消した。
 生霊送りは遂げられた。後はライドウ次第だ。荒くなった呼気のままひとつ大きく息をつく。雷堂の視界はぐらりと傾いた。
 ──お互い頑張るとしよう。
 ライドウの最後に残した言葉が暗転する意識の中でぽつんと浮かび上がっていた。


「ん、起きたか」
 ざり、擦れた音が聞こえる。耳慣れたそれは煙草を灰皿に押し付ける時に生まれるもので、漂う香りに鳴海が傍に居ると知った。見上げる天井が自室のものではないとぼんやり考えていると鳴海が顔をのぞかせて視界を埋める。
「痛いとことかない?」
「あぁ…我は倒れたのか」
「みたいだな。業斗さんが呼びに来てくれたんだけど、ぶっ倒れてるから鳴海サン心配しましたよ雷堂ちゃん?」
 すまない、と答える前に手のひらで髪を掻き混ぜられた。何も言えず視線を巡らせれば、室内には小さな机と同じく小さな本棚、クローゼット、姿見、そして雷堂が寝ている寝台があるだけだった。見覚えがないが慣れた空気のここは、おそらく。
「所長の部屋か」
「あーそっか入るの初めてか。お前んとこ布団だから敷くのめんどくさくてさ。今日はこのまま休めよ、なんかわからんけど大変だったんだろ」
 ぽんぽん、と布団の上から身体を叩かれて寝返りも億劫な程疲れていることに気づいた。手に余る術だとは思わなかったが、相当な体力を奪われたらしい。
「水持ってくる」
 扉の向こうへ消えた鳴海の背中を見送る。雷堂より低いもののそこらの男と変わらない身の丈が三つ揃えを纏えば、後ろ姿は男に見えなくもない。去り際にライドウが自分の世界の鳴海は男だと言っていたが、彼に迷いはなさそうだった。雷堂が同性での恋愛を考えたことはないが彼も同じだったと思う。でも惹かれたのは、おそらく、相手が鳴海だからだ。
 彼は鳴海を愛していると言った。
 なら己はどうなのか。
 高位の悪魔を使役し試練を易くこなすような当代葛葉雷堂であれば、もしくは彼であれば、鳴海の視線の先は違ったのだろうか。
「……詮のないことを」
 頭を横に倒せばやわらかな枕に埋まる。漂う煙草の香りとはまた違う肌の匂いが身体へまとわりつくのも気にならなかった。
 することはひとつ、精進するだけだ。彼のようになるまで。そのずっと先にまで。其のためには早く回復しなければならない。心配したという顔にほんの少し涙の影を見せた鳴海のためにも、何よりも己のために。
 目を閉じれば睡魔が途端に身体を絡めとり、雷堂は逆らわず意識を委ねた。






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20090515

ライドウさんはナル雷とこからここにきてますという捏造。
若人はとことんぐるぐるすればいい。