さして広くもない和室には一組の布団。
 座って見る庭はいつもと変わらず花で満ちている。
 今日はいい天気だから室内も明るい。障子を大きく開け放っているからそよぐ風がこちらの頬を撫ぜるのが心地良いい。同じ感覚を目の前のひとが少しでも味わってくれたら良い。ただそれだけを思う。布団の上に散った髪は艶を失ってなお黒々としている。
 庭で失敬してきた鉄線を竹筒に挿して枕元に置く。支柱代わりの枝ごと切った先でこどものてのひらほどの花が綺麗に開いている。若紫色のそれは薄い花弁と見える部分を風にそよそよと遊ばせていて涼しげだ。
 ごめんね。
 聞こえた言葉に視線を落とすと目の前のひとが困った顔でこちらを見上げている。そんな言葉は言わせたくない、悪いのは全て自分でしかないのだ。伝えたいのに様々な感情が一斉に喉までせり上がり先を争うものだから何も出てこなくてどうしようもない。いつも思い通りに言葉を紡ぐ唇が欠片も動かない。どれだけ優秀だと評されたところで今役に立たなければ何の意味があるだろうか。
 何も言えずにただ首を横に振るのが精一杯だったこちらへ困ったように笑いそのひとはもう一度だけごめんねと言った。ごめんねと謝るのは自分のはずなのに何でそんなことを言ってしまうのか。鉄線に目を細めた姿が酷く尊いもののように見えて目に涙が滲みそうになる。涙なんて操るとき以外はほとんど零したことがないのに。ここへ訪れるようになってから少しだけ馴染みになった感覚を追い払うために自分も笑う。淡く明るい色の鉄線はこのひととあのひとの気に入りで、黒髪へ飾るとすばらしく映えるそれを自分も出来る限り愛でている。挿し木を手伝わせてもらったのは前の夏だったか。
 うまく笑えているはずだったのに、背後からふいに名を呼ばれて涙は容易く雫となる。とっさに俯いた顔は目の前のひとに見られただろうか。見られていないといい。そう思いながら常通りの声で答えて背後のひとと入れ違いそそくさとその場を辞す。廊下に出て行儀悪く後ろ手に襖を閉め、ひとつ息を吐く間にもぼろぼろと涙が零れる。情けないとは思わない。身体に染みた声がいけないのだ。
 ああ、もう、ほんとうにあなたは。

 意識を引き上げたのは何だったのだろう。目元に手をやれば僅かながら濡れていて、鳴海は指先でそれを拭ってはは、と乾いた笑いを零した。
「はは……、ほんとに、いつまで経っても」
 窓から外を見れば青空が広がっている。

「貴方はあたしを泣かせる天才だ」








 屋上へ続く階段をゆったり昇る。扉が開け放たれているのかすこし強めの風が吹き込んで鳴海の髪を揺らし、階下まで下っていったようだった。
「おー、いい天気」
「所長?」
 はためく洗濯物を竿に止めていた雷堂が振り向く。鳴海探偵社の書生は今日もきっちりと家事に励んでいるらしい。風の隙間を縫って煙草に火を付けると鳴海はひらひら手を振った。
「本日も洗濯ご苦労様。休みが晴で良かったな」
 大道寺嬢の件は膠着しているが頭を抱えていても仕方がない。師範学校が休日の今日、身体を休めるよう言い渡したのは昨晩の食事を終えた時だ。
「洗い物もよく乾くから助かる。……時に所長」
「ん?」
「我はこれを捨てたはずなのだが」
 そう言いながら律儀に洗われているのは先週辺りまで雷堂が寝間着に使っていた浴衣だった。眉根を寄せる雷堂の前で紺の布地がはためいている。
「あ、それな。ちょっと借りてたというか…着物は楽だよな、なんか忘れてたんだけど。要らないみたいだから私に合わせて切っちゃった。駄目?言わなくて悪かったな」
「駄目というわけではない、が」
「んじゃちょーだい。それ良い生地使ってるから気持ちいいんだよ。お前には丈が足りなくなったみたいだけど。葛葉もいいもん持ってるねえ」
 煙を吹かして笑えば雷堂がふいと視線をそらした。鳴海の記憶が確かならば、里から持ち込んだ少ない荷物のひとつだった浴衣は酷く肌触りが良い。一文字に引き結ばれた口に照れに似たものを見つけて鳴海はこっそり喉を鳴らした。仕立て直しやお下がりなんてそこらで日常的に行なわれていることなのに、どうやら里では雷堂は特別な存在だったらしい。こういった小さな日常に戸惑っているのを見つけられるようになったのはいつからだろう。とりあえず、今目の前の少年は十人が見たら十人が「怒っている」と言うんじゃないだろうか。
 それに、ためらいなく捨てられていたのが少しだけ悲しかった。
「好きにすれば良い」
「ん、ありがと」
 肺に深く紫煙を溜める。ゆるゆると吐き出せば途端にかき消されるそれをなんとなく見送り、鳴海は屋上からの光景に目を細めた。いい天気だ。空は青く澄み渡り、所々に浮かぶ雲が並ぶ建物に同じ形の影を落としていた。きゃあきゃあと甲高い歓声が聞こえるのは近所の子供達だろう。業斗が遊ばれていないといいのだけれど。
 ぼんやりしているうちに雷堂は全ての洗濯物を干し終わったらしく、ちらりと鳴海を見た。普段あまりここに来ないからどうやらなにか勘繰っているようだ。
「終わったか。んじゃ行こう」
「は」
「出かけるぞ。こんないい天気なんだ、出かけない手はないだろう?あー断るなよ、これ所長命令な」
「今日が休みだと言ったのは所長ではな」
「あーいいのいいの!そんなの知らん!私が出かけたいんだからデェトにお付き合いしてよ雷堂ちゃん?」
 言葉を遮り一気にまくしたて最後には手を合わせてお願いしてみれば、雷堂はひとつ瞬きして口の中で何かもごもごと言った後、目を閉じると了承した。甘い物奢るから、と付け足した言葉に懐柔されたのかもしれない。ならさっそくとばかりに備え付けた灰皿へ煙草を押し付け学生服の背を押す鳴海には、まだ薄い身体越しに雷堂の溜息がしっかり聞こえていたけれど。
 最低限の装備だけ身に付けた雷堂とたわいない言葉を交わしながら向かったのは河川敷だ。ここでものんびりと休日を謳歌する人の姿がちらほらと見かける。飼い犬を追い回している少年が足を取られて転び、わんわんと泣いていた。
「はは、かわいい」
 助け起こす気もなかったけれど見ていれば犬が飼い主の元へ駆け寄ってその頬を舐めている。思ったまま口にして振り向けば雷堂も犬と少年のじゃれ合いを眺めているようだった。
「それで」
「ん」
「何か用があったのではないか」
 直立不動の書生に苦笑し、のんびりしに来たんだよ、と告げる。
「ぼんやり寝っころぶってのもいいもんだよ。うりゃ」
「!?」
 近寄って何気なく足を払えば雷堂の身体は容易く半回転した。それでも綺麗に受け身を取るのは彼がきっちりと修練を積み重ねてきた結果なのだろう。目をぱちぱちさせながら身体を起こそうとするのを片足を腹の上の触れるかきわどい辺りに止めて防ぎ、にやりと笑ってやる。
「こんなのも防げないんじゃ相当疲れてんだろ。普段のお前なら避けはすると思うがな、まあたまにはのんびりしろって。寝てもいいから」
 ぐ、と喉を鳴らした雷堂は煙草に火を付ける間じっと鳴海を睨みつけていた。見られていることはわかっていても視線を合わせずに空を仰ぐ。やがて何か言おうとした気配を感じて先手を打った。
「ショチョ―メイレイ」
「う」
 かかか、と遠慮なく笑うと雷堂は諦めたのか力を抜いて寝そべり、学帽を深く被り直した。再び両足で立ち取っちまえば良いのにと零した鳴海の言葉は流される。ざ、と強い風が川縁の背の高い草を揺らした。先程の犬と少年が遠くに指先程の小ささで見える。
「まあ…焦る気持ちもわからんでもない。でも休める時には休んだ方がいい。これオネーサンの忠告ね。一応人生の先輩よ」
 それに、と鳴海は心の中で付け足した。鳴海が得ている情報では晴海町で騒ぎが起こっている。噂だけを頼りに雷堂を向かわせてもいいが、このままなら確実に金王屋の店主から依頼が入るだろう。ならそれに乗じた方が都合がいいのだ。また走り回ることになる書生には今のうちに回復してもらわねば。どうやら大道寺嬢の件はまだまだ先がありそうだ。
「さて。雷堂ちゃんは団子と饅頭どちらがご希望かね。近くに美味いとこあるんだけど」
「……我が買いに行く」
「命令続行中。奢るのは約束だったし。気になるなら店は今度自分で探すんだな」
 ちょっとした隠れた名店なのよー、と言葉を雷堂に落として鳴海はゆるやかな傾斜を登った。路地をいくつか奥に入ったその店は菓子屋を探すだけでは見つかりにくいだろう。背後の不機嫌な気配が饅頭、と零したのに了解と答えてやる。
 ひとつめの路地にさしかかったあたりでどこからともなく黒猫が姿を現した。さりげなく横に付くのは見知った相手だからだ。
「業斗さん」
『甘やかすものだな』
「体調管理も監視の務め、ってことにしといてくれませんか」
 苦笑に尻尾がぶんと振られる。
「なんだか知らないけど妙に身体痛めつけてるし。そんなに倒れたのが悔しかったんですかね」
 しばらく前に丑込め返り橋で倒れていた一件以来、雷堂の修行量は格段に増えていると思う。大道寺嬢の件だけでも探索に時間を取られているというのに、隙間を見つけては志乃田へ足を向け遅くまで帰ってこない。学業に支障が出ていないから咎めてはいないけれど、いったいあの若者は何にかられているのやら。
「……悔しい、のとはまたちょっと違う気もしますけど」
『何、あれが小僧だというだけの話だ』
「ならいいんですけどね。あ、良かった開いてる」
 立ち寄った露店で鳴海は焼き串を三本買い、店主へ話しかけると団子と饅頭をひとつずつ包んでもらっていた。串から香る肉の匂いに業斗の鼻がひくひくと動く。昼間から酒を呷る親父達が目指すこの店は、店主の細君が菓子を作っているのだと鳴海が説明した。常連しか存在を知らないそれは素朴な味がして美味い、と鳴海は思っている。
「ま、頑張りすぎないことです。のんびり強くなってくれりゃいいんですよ、あんな肝が冷える事態はもうごめんですが」
 近所のおつかい程度の依頼をこなし探偵社でぼんやりしていれば突然業斗に呼び出され、向かった先で預かり子が真っ青な顔で倒れていた。どうにかして自室まで運び、目覚めるまでのあの感情は全くいただけない。喪失の恐怖など昔に置いてきたと思っていたのに。いや。
「世の流れが優秀なあれを求めているにしても──あれが子供なことは変わりませんから」
 いくら無表情でわかりにくいとしても。都会に戸惑い、人々に触れて様々な感情を自覚し、色事でからかえば赤くなって、笑おうとして唇を持ち上げるようになった。その真っすぐな気質と瞳で刃を振るう雷堂はまだ成人前のこどもでしかない。まぶしいぐらいの若さがあんなところで消えてしまうなんてあってはいけないことだ。それはこの汚れた魂と引き換えにしても守るべき価値があるものなのだから。
 雷堂が目を覚ました時、滲んだ涙は零れなかったけれどそれぐらい安堵した。
 ああそうか。涙の気配が今更あんな夢を呼んだのかもしれない。容易く泣いてしまう記憶を。
『ご苦労なことだな』
「お互い様でしょう。ね」
 にこりと笑ってみせれば業斗がにゃあと啼いて鳴海の肩に乗った。ふらふら揺れているらしい尾が歩くリズムの間に背中を打つ。
「お、我らが当代様は律儀に命令を守っているご様子」
 見れば黒づくめの姿は腹の上で手を組んで寝そべったままだった。ざくざくと短い草を踏みながら近づけばちらりと視線が寄越される。
「たーだいま。そこで業斗さんと会っちゃった。ほれ。私は肉な」
 身体を起こした雷堂の膝に菓子の包みを投げて鳴海もその横へ座り込んだ。串をひとつ雷堂へ渡し、ひとつは自分のものにして最後のひとつは串を抜いて空になった紙袋の上にばらす。ちょこんと座る業斗の前へ差し出せばにゃあと礼が返された。
「うまいなー」
 肉へ齧り付いた頃になって漸く横からありがとうございます、という言葉が聞こえた。何に対しての礼なのかは考えないことにする。ぼんやり眺める水面は午後の光を反射してきらきら光り、ぱしゃ、と時折魚の跳ねる音が言葉のない空間へそっと彩りを添えた。
 いい天気だ。風は心地良い。
「所長は」
「ん」
 早々に串を食べ終えていたのに、鳴海が肉を全て飲み込んでから包みを開いた雷堂が団子をこちらに差し出していた。ああそうか、と思い至って少し笑う。どちらも食えという意思など、このこどもは気づいているだろうに。
 鳴海は身体を倒して雷堂へ顔を近づけると、差し出された団子の一番先に刺さったひとつをそのまま食べる。固まる雷堂を横目で見ながら咀嚼し、飲み込んでからその場に寝そべった。途端に視界は青空で埋められる。どこからか飛んできた綿毛が青一色の世界を横切っていった。
「後はあげる。ちょっと寝るな、おやすみ」
 顔の上に帽子を置いて自分の腕を枕にすればいつでも昼寝が出来る体勢だ。夢のせいで眠りが浅かったから睡魔は駆け足で鳴海に向かってきてくれる。
「……食べてすぐ寝ると牛になると」
「あーそれはオンナノコには駄目よ雷堂ちゃん、お前は女心をわかってないねえ」
「女子だというならこんなところで無防備に寝るな」
 溜息混じりの苦言に帽子の影でひっそり笑う。なんだかんだと言いながらこの預かり子は優しいのだ。例えそれがわかりにくくて不器用なものであっても。
「無防備じゃないよ」
 雷堂側の脇腹にあたたかいものが凭れてきた。業斗もこの後の予定は昼寝と決め込んだのだろうか。人間が話している間、この目付けが会話に参加することは少ない。
 ふああ、と眠気のままに欠伸を零す。
「お前がいるだろ」
 雷堂からの返答は無く、細く薄い風の音に紛れてかさこそとちいさく紙の擦れる音がした。饅頭の包み紙を開いているのだろうけれど、そんなに気を使うこともないのに、とくすぐったい気持ちになる。甘いものを頬張るときの表情が見れないのはすこしばかり残念だが、こうして微睡むのは何にも代え難いしあわせの時だ。
 涙の気配などどこにも感じない。

 与えられるやわらかさへ自覚して甘え、鳴海は睡魔に身を委ねた。




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20090602

雷堂さんは多分内心どっきどきです。若造だから。