「宗像を追え、か」 不愉快な電話を叩き付けるようにして終わらせ、鳴海は吸い殻で埋まった灰皿へ煙草を押し付けた。転がす余裕も無く立ててぎっしり詰めるのは雷堂が来る前には見慣れた光景だった。 「あンの下手糞河童共が」 吐いた悪態を聞くものはいない。怪我を負った時、風呂場の扉越しに黒猫には同じ呟きを聞かれたようだったがあの猫は誰にもそれを告げないだろうという変な確信もあった。それでも言ってしまったのは鳴海自身の弱さかもしれない。 和電イ号基に潜入せよ。電話の向こうから聞こえた定吉の声はまるで感情のない機械そのもので、若いねェ、と鳴海は新たな煙草に火を付けた。そういう造り方は必要かもしれない。矜持ももちろん必要だが。 「……ありゃあ軍上がりだな」 軍上がりも何も軍人だ、と苦笑した。そう言えば古い記憶にもっと歳若いあの男がいたと今更に思い出して煙を吐く。当時から鍛えられてはいたようだが印象が変わらないところを見ると根本は変わっていないのだろう。 矜持はあの生業で何よりも必要だ。しかし。 「軍人さんねぇ」 必要なのは軍人として任務を遂行するという矜持ではない。 己にできないことがあってはならぬという馬鹿げた自尊だ。 「かーいらしいもんだ」 あの中身なら色々あいつきっついだろうなあ、などといっそ哀れに思いながら鳴海は目を閉じた。連絡の中身に恐らく嘘は無く、間もなくして雷堂が戻ってくるだろう。傷を癒し万全の体勢を取らせる猶予は口一つでもぎ取った。渕駒という儀式がどれだけ雷堂に負担をかけたかと思うと胸が痛む。幾日か経てこちらの傷は大体癒えた。そうなるように加減させたのだから当たり前だ。雷堂を筆頭とした他人にわかる部分は見た目に派手でも浅いものばかりなのだから。あのかわいいこどもが気に病む事は何も無い。 我は鳴海さんを守る。 言われた言葉がふと甦り、鳴海はちいさく笑った。なんとも頼もしいものだ。 ボォンと柱時計が時を告げた。 「さて。どうするかな」 独り言が多いのは落ち着いていない証拠だと内心で苦笑する。雷堂が得て来た情報を疑うわけではないが、鳴海にはよろしくない欠片ばかりが集まっていて辟易した。軍の介入。超力兵団計画、宗像という名。二つ合わせると思い出すのは一人の男しかいない。 「……宗像、さん」 もう何年も前の話だ。忘れるぐらい前の。 自分にひとつ嘘を吐き、鳴海は珈琲をいれるために台所へ向かった。 「只今戻りました」 「おかえり、雷堂」 探偵社の扉を開けて目にした光景があまりにもいつも通りで、雷堂は左目を僅かに細めた。所長席で紫煙を燻らせて鳴海が笑っている。ああ帰って来たのだと漸く実感すれば呪いから解放された身体が途端に悲鳴を上げた。情けない様だけは見せたくないとどうにかその場で背を伸ばす。 「海軍から話は聞いた。大活躍じゃないか雷堂ちゃん……身体、平気か」 「それは我の台詞だ、所長こそ大丈夫なのか」 「見ての通りぴんぴんしてるよ。もう包帯外してるし一日で床上げしたさ。お前はもうちょっと自分を可愛がれ、顔真っ青だぞ」 言って鳴海が近づいてくるのを雷堂は動かないで見ていた。呪いを肩代わりした世界でずっと身を浸していた負の感情を思い出す。色さえ失った視界の中、代わる代わる浮かぶ過去の記憶に鳴海も存在した。決して長い時を生きているわけではないけれどそれなりに傷付いたり憤ったりした記憶に混じる鳴海は救いだと感じたのに、雷堂の思考は簡単に本人を裏切った。例え呪いの効果だとしても、思った事は事実でしかない。 誰かのものであるのなら。 手に入らないなら犯して壊せば良い、と。 「……大丈夫か?」 体温を知るためか、頬に触れようとした鳴海の手のひらを無意識に避ける。自然な動作ではあったが気づいただろう鳴海は何も言わずに雷堂を部屋まで押しやった。ぐいぐいと押す鳴海に逆らいきれず雷堂の身体は自室に押し込まれる。抵抗できないぐらい疲労していたのも確かだし、雷堂から鳴海に触れる事へ躊躇いもあった。あんなことを考えた自分が鳴海に触れていいとは思えない。 自室を見渡せば既に布団が敷かれて過ごしやすいように細々としたものが運び込まれていた。飲み物持ってくる、と言って鳴海が消えた隙に浴衣へ着替えて座布団に座る。 「お待たせ」 運ばれて来たのは焙じ茶で、鳴海も同じものを啜っていた。雷堂の勧めた座布団を移動させ、壁にもたれた姿勢で鳴海は胡座を組む。 「ま、今日のところは休んでもらうとして、だ。お前も海軍から話は聞いてるな」 「ああ。宗像少将を追って和電イ号基へ向かえと」 「全く勝手ばかり言って下さるもんだよ、カラスもなーんも言わないからいいけどさ。……私が言うまでもないだろうが危険だぞ。ちゃんと準備してから行け。焦って突っ込むなよ」 「心得ている」 きっぱり言えば鳴海が苦笑し、もう一口茶を含んだ。珈琲のカップとは違い湯呑みを持つだけで珍しいのに、両手で持つ様がなんとなくかわいらしいもののように見えて雷堂はゆるく頭を振った。今はそんなことを考えている場合ではない。 「私は私のやり方でやっとくよ。カヤちゃんのことも気になるしな。今のところ海軍さん達の言いなりみたいなもんだが、道が明らかなだけ楽ってなもんだ」 鳴海の手がポケットに向かい、それから気づいたように手を湯呑みへ戻した。恐らくは煙草を取ろうとして思い直したのだろう。部屋に入る時雷堂へ勝手してごめんな、と謝ったように鳴海が雷堂の自室に居るのは初めてだ。この部屋に灰皿があるはずも無い。 「なあ雷堂」 湯呑みを畳に直接置いて足を立てた鳴海の声が低い。 「……和電イ号基に行くのはいい。けどな。海軍の言うことだけ鵜呑みにしないで欲しいんだわ」 はは、と小さな笑い声が部屋に落ちた。日が傾いて来たのか部屋に入った時よりも影が長い。畳へ歪んだ四角の形に落ちる光の境目を眺め、雷堂も手の中の湯呑みに口を付けた。身体に染み入るはずだった熱さはもう空気へ逃げてしまったらしい。 聞きたくないと思うのはどうしてだろう。 「国を憂い、国家を、国民を救おうとしてた軍人を私は知ってる。超力計画だなんてものを唱えてな。いや、知ってたって言うのかな。……まっすぐ前見て、ひたすら努力していた、あの人を」 だからお前には自分の目で何が悪かを確かめて欲しい。 膝に顔を埋めてしまった鳴海の言葉に反論は何も無い。請う形を取ってはいても承諾すると思っていたのか、雷堂がひとつ頷けば気配で察した鳴海がありがとうと呟いた。礼など雷堂には必要ないものだ。複雑なこの件に当代葛葉雷堂として関わる以上、己の目と頭で判断しなければならないと思っている。それでも。 あの人、と鳴海は言った。どこかで聞いた呼称だと考え、記憶を探るまでもなくすぐに答えを見つける。異なる時空の葛葉ライドウがその場に居ない鳴海を呼ぶ時に使ったものだ。もちろん鳴海の言う「あの人」は違う人間に決まっている。決まっているけれど、ライドウと鳴海の声音の響きは同じだった。それはきっと、知らず存分に情を込めた──いとしい、という音だ。 「宗像か」 思わず口にしてからしまった、と思った。露骨な符号がいくつもあるから聞かずとも解るその答えを、聞いてしまうのは多分嫉妬からだ。鳴海も確認されるとは思っていなかったに違いない。 姿勢も口調も変えず心中落ち着かない雷堂へ、鳴海は顔を上げて視線を寄越した。薄暗くなって来た部屋ではレンズの向こうにある瞳がよく見えない。眼鏡の形がいつもと僅かに異なっている事に今更気づいて雷堂は胸を痛めた。そうだ、いつも付けている眼鏡はあのとき歪んでしまっていた。気を逸らしている内に鳴海の口の端が上がり、雷堂は無意識に言葉を継ぐ。 「宗像少将か」 「……ん」 言葉ではない音だけが鳴海から零れる。否定も肯定も無い態度こそが肯定の証に感じられて、雷堂は僅かに目眩を覚えた。なら鳴海の想い人は。 「昔世話になったんだ」 それだけ言うと鳴海は弾みをつけて起き上がった。雷堂からも空の湯呑みを奪って扉に向かう背中を雷堂は睨みつける。ひらひらと鳴海の肩辺りで手のひらが振られた。 「あーやば、調査で待ち合わせしてんだよな。ちょっと出てくるわ雷堂ちゃん、お前の今日のお仕事は休む事だからな?疲れてんのに話に付き合わせて悪かった。ちゃんと寝とけ、な」 声音から伝わる表情は確かにいつも通り笑っているものなのに、背に滲む違和感。所長、と雷堂が呼べば何の抵抗もなく振り返る。 「ん」 視線を合わせた途端、眉を下げて笑った鳴海へ雷堂は確かにほころびを見つけた。泣いてしまえと思った。鳴海の涙など笑い過ぎて零れたものしか見たことはないが、泣き叫んでしまえばいい。自分の、雷堂の前で。 女が泣くのは良い男の胸と相場が決まってるんだ。伽耶を秘書に雇った晩、与えた部屋に伽耶が下がった後でそう言った鳴海を覚えている。だからあの子が辛くてそん時お前が側に居たら胸ぐらい貸してやれよ色男、言って鳴海はけらけら笑った。笑っていても伽耶が居た場所を見る目がやさしかったことを見惚れた自分は知っている。 そんな鳴海こそ泣いてしまえば良いのだ。 「所長」 「何だよ」 感情のまま、繰り返し呼べばもう鳴海にほころびは見つけられなかった。単純に不思議そうな目が雷堂を見ている。隠してしまったのかそれとも消えたのか、わからないほころびをただ雷堂は愛しいと感じた。目の前の女ごと。 「好きだ」 「え?」 聞き取れなかったのか気の抜けた声が部屋に転がる。殆ど身体を扉の向こうに運んで顔だけこちらを向いている鳴海を、雷堂はただ真っすぐに見て繰り返した。 「我は鳴海さんが好きだ」 告白を想像した事はある。きっと真っ赤になって何も言えないと思っていたのに、あまりにもするりと口から出て来たのは本音だからだろうか。不思議と波立たない感情のまま見つめていると鳴海が大きい目を一時瞬きで隠した。室内と違い明るい廊下からの光が鳴海の顔半分ぐらいは照らしてくれる。 「ん」 どこかでパシ、と家鳴がして鳴海の肩が震えた。その後で顔に浮かんだのは何時もの笑みだ。 「行ってくる。おやすみ」 扉が閉まる音を意識から随分と離れたところで感じ、雷堂はすぐ横の布団へ倒れ込んだ。座布団の上に正座していたから体重の圧迫から解放された足に血が巡り出す。窓から入る光は闇に近い赤で隅を照らしていた。薄暗い部屋で見上げる天井は雷堂に微かな重みを与えてくる。扉に視線をやれば床との隙間から入り込んでくる廊下の明かりが一番に目に付いた。 鳴海さんが好きだ。言った自分の声は他人のもののようだった。 「……笑われる、と、思ったが」 いつものように笑い飛ばされてなかった事にされると思っていた。相手にもされずからかわれ、雷堂の想いごと消されてしまうと思っていた。いや、流されたのには違いないけれど。 「鳴海」 眩しい光源はない。 それでも閉じた目の上にゆるく握った拳を置いて雷堂は其の名を呟いた。 「鳴海」 どんな感情が付随しても、真中にあるのはひとつしかない。 あの人が好きだ。 --------------------------------------------------------- 20090613 ぐるぐるぐるぐる。雷堂は覚悟決めたら怖そうですよね。大正妖都の純情め!
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