「いい季節だなあ」
 ふわ、と開け放った窓から流れ込んでくる風の感触がやわらかい。机のいつもの位置に置かれた珈琲を振り向くことなく後ろ手に取って、鳴海はありがとう、と呟いた。いえ、と静かな答えを背中で聞く。窓から見下ろす通りの人々も過ごしやすい気候のせいかどことなく明るいようにも思える。
「ふあ」
 大きく欠伸をしてから珈琲を味わうと、鳴海は窓の桟にカップを置いて煙草に火を付けた。吐き出された紫煙は立ち上ったかと思えば室内に戻り、その身を風に遊ばせて姿を消してしまう。
「危ないですよ」
「んー、まあ大丈夫でしょ」
 特に急ぎの依頼もなく相変わらずの開店休業状態だ。本日も鳴海探偵社は平和そのもので、ゴウトも陽気に誘われたのか外出している。
「春だねえ」
「はい」
 独り言と流されてもかまわない言葉にも律儀に答えがあり、鳴海は少しだけ笑った。学校のないライドウは来客用のテーブルで学業に励んでいる。語学なら手助けできるから遠慮なく聞けよ、とは言ったものの、成績優秀な書生が質問してきたことはない。
 まったくそつのない。煙草を燻らせながら鳴海は軽子川の水面を見ていた。
 そしてふと思い至る。
「なあライドウ、柳絮って見たことあるかい」
 かたん、とペンを置く音がしてライドウがこっちを見ているのだと思った。邪魔をしているような鳴海の行動にも姿勢を正すのがいかにもライドウらしい。鳴海としてはそんなに堅苦しいと息が詰まるのではないかと最初は心配したものだが、どうにも習慣は変えられないようだ。慣れてきた今となってはこんな応対がライドウの常であると認めて、特に何かを忠言することもなくなった。
「りゅうじょ、ですか」
「ヤナギのワタと書く。大陸にゃ有名な場所もあるが、こっちだってちょいと捜せば見られるよ。雪みたいにふわふわ飛んでるんだ」
「それは……綺麗なのでしょうね」
 少しだけやわらかく響いた声に、見たことのない情景を想像してかライドウが笑んだことを知る。わざわざ視線を向けることはないが、おそろしく整った顔が少し口の端を持ち上げるだけで幼くなることを鳴海はわかっている。記憶の中からその表情を引き出してみれば、ライドウは間違いなく十代後半の、鳴海の半分程度しか生きていないこどもなのだと知れた。
「里にはなかったか」
「葛葉の里は山の奥深いところにありますから、柳が身近にあった記憶はありません。川も水源に近いものしかなかったかと」
「なるほどね。ここらの枝垂とはまた違う種類だしな」
 ぬくぬくとした温度をはらむ風が軽子川沿いに並ぶ枝垂柳を揺らし、どこか遠いところまで駆けていく。つられたのかあわい萌黄の葉がひらりと枝に別れを告げて川面へその身を浮かべ、川下へと旅立っていった。
「まだ早いけど五月に入りゃ見れるかな。都合付けば見に行く?弁当持って、ゴウト連れて、後は美味い酒でもありゃ最高かねぇ。あんまり多いとこに行くと飛び過ぎて見物どころじゃないとも言うけどな。どうだいライドウ」
「はい。行きます」
 鳴海が驚く程の即答に思わず苦笑して、いい傾向だな、と思った。昔は提案しても困惑して口を噤むばかりだったというのに。それに約束なんてものをできるのはまっとうな人間である証拠だ。帝都へ来た最初の頃、何が盛りという訳でもないのに花見へ無理矢理連れていった時みたいに弁当に菓子をそえてやれば甘党のこどもは喜ぶだろう。むしろそれを期待しての即答なのかもしれない。そんなたわいもない打算が含まれていたのだとしたよりかわいらしくて仕方ない。
 くく、と喉を鳴らす鳴海の目に入ったのは黒猫の姿で、銀楼閣の前を必死の形相で駆けていくゴウトはいつになく焦っているようだった。
「あれ、ゴウト…あーあーあー、モテますねえ」
「ゴウトさんがどうかしましたか」
「かわいこちゃんに熱烈に追いかけられてるよ。ああ、春だもんなあ」
 毛足の長い白猫はどこかで飼われているのだろう、見事な毛並みを風に遊ばせながらゴウトの二倍はあろうかという体躯を揺らしている。身体に似合わずなかなかの俊足だ。
「モテる男はつらいねえ。ま、あの様子じゃそのうちここまで逃げてくるな」
 男前にミルクのひとつも用意してあげますかね。
 そんなことは自分が、と腰を上げようとするライドウを片手で制し、いいよいいよと手のひらを振る。
「春だもんなあ。時にライドウちゃん、恋はしてるかね」
「は」
 ライドウの横を通り過ぎ様、学帽の上からぽんぽんと頭を叩けば言葉になりきらない声が机上にぽつんと落ちた。確かに唐突な質問だ、と鳴海は内心苦笑する。あまりにもわかりやすい反応や普段の態度から、ライドウに懸想する相手がいないことなど知っている。それでも聞いてしまうのは下世話な興味か、己のどうしようもなさか。
「いえ。俺はまだ役目のことで精一杯で」
「ああなるほど、そういう言い回しで数々の女学生泣かせてんのねお前さんは。まあそれも大切なんだろうけどさ、」
 事務所から続く炊事場への入り口辺りで鳴海はくるりと振り返った。ライドウを見るのはこの会話が始まってからこれが初めてだ、と頭のどこかが呟く。
「恋はしたほうがいいよライドウ。あれはつらいことも多いけれどお前をきっとしあわせにしてくれる」
 ――今の俺のように。
 こころのうちだけで付け加え、笑えばライドウが神妙な顔をして頷いた。
「……心に留めておきます」
「はは、まあオジサンの戯言ですよ」
「それでも」
 ありがとうございます。
 再び振り返ったのでライドウの言葉をまた背で受ける。ああ春だな、再度呟いて牛乳を平皿へ注ぐのと、息も荒くやつれた様子のゴウトが事務所に入ってくるのは同時だった。

 ナァン、とどこかで春猫が啼いた。
 
 

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20090402

自覚して動くつもりのない鳴海サンと無自覚のさらに手前ライドウ