『Cry for the MOON』

 











 ぽっかりと切り取られた闇の真ん中で、正円を描いているのは月。
 湯気に満ちた浴室でイルカはぼんやりとその光源を見つめていた。月は金にも銀にも白にも、時には赤にさえも見えるが今日は黄色だな、と思った。
 アカデミーのちいさな生徒達に絵を描かせたら、ピンクのウサギが跳ねていたっけ、思い返せば自然と笑みがこぼれる。

「こーんばーんは」

 ひょい、と顔を出したのはカカシだった。がさがさ音がするのはビニル袋を持っているからだろうか。

「こんばんは。こんな時間にどんな御用向きで?」
「あれ、冷たいんですねぇその反応ー。なんでこんなことになってるんです?」

 カカシが尋ねるのも当然だ。教員用アパートの風呂場は真っ暗で、灯りは何故か狭い脱衣所、洗面台のライトだけ。扉越しに独特の鈍い光がぼんやりとイルカを照らし出している。湯の表面まで光と同じ色に見えて何だか温度以上にあたたかい気がして、視覚の効果とは大層なものだなぁと思った。
 今はだいぶ窓から逃げていってしまった湯気の向こう、きらきらと髪に光を透かせるカカシも綺麗だ。
 お互いにお互いの疑問には答えないままで。
 じっと見つめているのに気づいたか、カカシががりがりと襟足のあたりを掻きむしっている。照れているんだろうか。お互いにまだ慣れないな、とイルカはこころのうちで呟いた。

「あー…とりあえず、お宅にお邪魔していいですかね。ずっとこうして喋ってるわけにもいかないですし」
「そうしてください」

 アパートの一階で、風呂場のちいさい窓越しに話しているのは滑稽な姿だろう。角部屋だからお隣はひとつしかないが、写輪眼のカカシがここにいると知れば恐縮してしまうに違いない。今日は夜勤なのかまだ帰宅してないようだが、彼は良い意味でも悪い意味でも中忍だった気がする。
 断りをいれなくても合鍵を渡しているんだから入ってきて欲しかったが、まだそういうわけにはいかないらしい。
 派手な醜聞と違っておそるおそる近づいてきてくれるカカシはかわいらしくももどかしい。つきあい始めなんてこんなものだろうか。確かに互いの体温を知ってまだそれほど経っていないけれど、まぁこういうのは時間よりも性格がものをいうのかもしれない。
 くく、と喉を鳴らして笑えば脱衣所の扉が開き、曇り硝子越しにカカシの姿が見えた。長身が電球を隠してしまい、風呂場はいっそう暗くなる。

「カカシさん?」

 早く出て相手した方がいいだろう。話すことはいくらでもある。イルカがそう判断してバスタブから出ようとする前に硝子戸が開き、腰にタオルを巻いたカカシがずかずかと(実際には広くない風呂場へ一歩二歩だけだが)入り込んできた。

「カカシさん?」
「…たまには一緒も、イイでしょ。お土産持って来ちゃいました」

 にこ、と笑っているだろうだいすきな表情は影になってわからない。カカシは手に盆を持っているようで、場所を空けるのを待っているらしいのでイルカは足を折ってバスタブの壁に背を預けた。一人暮らし用のアパート、狭い浴室に男が二人というのはかなり苦しいものがある。半身浴を楽しんでいたバスタブにカカシは足を突っ込み、イルカの向かいになる縁へ腰掛けた。腰に巻いているタオルは白なのに、そこからすらりと伸びる綺麗に筋肉が付いた脚の方が白く見える。それは肌色のはずなのに。

「はい、おみやげ」

 イルカの立てた足の間、カカシの膝頭の間に盆が浮かべられた。さっき窓の真ん中にいた月のように、まん丸い盆の上、これまた丸いものが並んで串に刺さっている。ほわん、と風呂の湯とは違うもっとやわらかな湯気がちいさくゆれている。

「…みたらし、ですか」
「うん。今日って月見なんだってね、お子様任務が和菓子屋のお手伝いで、お土産もらってきちゃいました。俺があったかい方が好きだからレンジでチンしちゃったけど」
「あ、はい。できたて美味いですもんね、あったかいの、俺も好きです」

 盆の上には団子の皿以外にグラスが二つ載っていた。淡い緑で葉が幾枚か描かれたグラスには、黄色とも緑ともつかない液体が氷を二つづつ浮かべていた。色は正直なところ予想でしかない。光源が色を帯びているので見た目と実際は違うだろう。

「こっちは焙じ茶ね。先生、好きでしょ」
「どうも」

 盆の上に手を伸ばせば湯面に起こる細波、グラスを口に運べばかろりと氷が揺れる音。弱く一部だけを照らす光。胸元あたりまでの湯、見上げればそこにいるカカシ。
 こくりと喉を鳴らして茶を飲む。長風呂で温まった身体に冷えた茶は極上で、体内を滑り落ちていく冷たさが腹へたどり着くのをはっきりと感じることが出来た。
 静かだ。
 月見ならば月を見なければ、とカカシに頼んで窓の反対側が開くようにしてもらった。動けば盆をひっくり返しそうで怖いのだ。さっきと同じ形で違う場所にある月は、今度は白に見えた。…白というより、光そのものかもしれない。

「こんなのもいいですね」

 薄暗い室内。窓を開けているせいで熱気がこもることもない。

「露天風呂みたいでしょう。俺はガキの頃から風呂が好きで、外が好きだったからよくこういうことをしてましたよ。あんまり長いことやるもんだから風邪引くってかーちゃんに叱られちまって」
「あはは、その光景が目に浮かぶなぁ」

 串を咥えたままで笑うカカシの白さはぼんやりと薄闇に映える。食べ終えた串を置き、摘んでいた指が甘辛いタレで汚れたのを舐め取っているとカカシの爪先が向こう脛を蹴ってきた。
 いつも二人きりになってからしばらく続くぎこちなさが漸くとれたようだ。今日は風呂に乱入するだなんて大胆なことをして見せたけれどなにかあったんだろうか。イルカの思考を余所に、カカシの足先は攻撃を繰り返す。

「ちょっと、色々こぼれますよ」
「イルカせんせがエロいことするのが悪いんでーすよ」
「エロいって」

 なにもそんな表現を使わなくても、と思うのだが。イルカの苦笑はカカシの気に入るものではなかったらしく、ぴしりと額を弾かれる。

「痛いですよ」
「痛くしてるんです」

 ぱしゃん。
 静かだ。
 思ったことはそのまま口から出てしまったようで、そうですね、とカカシの相槌が返ってきた。時たま上の階か、それとももっと遠くか、壁を挟んだむこうからテレビの音やなにか物音が聞こえてくるけれど、言ってみればそんなものが聞こえるほどこの空間が静かなのだ。
 箱形に切り取られた静かな空間。

「そう言えば」

 ふ、と切り出せばカカシの意識がこちらを向いた。視線は外の月を見たままだが言葉の続きを気にしているんだろう。昔少しの間だけ飼っていた猫を思い出し、イルカはバレないように薄く笑った。

「和菓子に『静寂』ってぇのを見たことがあります。透明な、寒天かな、立方体の中に餡でできた球が入ってるんです。閉じこめられたみたいに」
「へぇ」

 ぴちゃん、とカカシの動きで水が跳ね、盆が揺れた。

「綺麗なもんですよ。たった一個の和菓子なのに、確かに音がない世界を思わせるんです。デザイン的にはまぁ誰か思いつきそうなもんですが、名付けた方は名匠だなぁと勝手に思いました」

 まぁ俺が芸術とかそんなものを語るのは柄じゃないんですが。そう付け加えれば、ふうん、と気のない声。

「しじま、かぁ」

 静寂という言葉を、そしてその言葉を名にする菓子を、カカシがどう思ったかイルカにはわからない。それでもカカシは静寂という響きを口の中で楽しんでいるようには見えた。
 切り取られた空間に二人きり。切り取られたと言っても窓は開いているし、少し力を加えたら風呂の硝子戸は簡単に開いてしまう。月光は外とこちらをつないでいる。

「…月を閉じこめる、とか言いますよね。盃の中とか。この風呂にも映ればいいのになぁ」
「角度的にしょうがないんじゃないですか」

 カカシは幾度も幾度も湯面を撫ぜ、細波をこちらへ寄越してくる。そんなに月を閉じこめたかったのだろうか。この薄暗い空間に月を閉じこめてしまえば、本当にあの和菓子のようになったのかもしれない。閉じこめられた空間には何も入ることが出来ない。だから無音なのだ。

「いい加減寒いでしょう。俺、身体洗いますからカカシさん入ってください」

 言いながら追い炊きボタンを押してやる。ぬるめの湯では中途半端に入れば冷えるばかりになってしまう。イルカはもう一度後でつかるつもりだし、今からシャワーを使うんだから問題ない。
 秋がだんだんと深まる入り口の今、夜の空気は少しだけ肌寒い。元から足下しか濡らしていないカカシだからそう寒さを感じていないだろうけれど、風邪を引かれても困るし。
 大事なひとなわけで。
 くん、と髪が引かれ、何事かと思う前にカカシの腕がイルカの頭を絡め取った。互いの足で近づくことが適わないこの状況、上を向かされてカカシと真っ向から見つめ合う。

「つーかまえた」

 ふふ、と笑う吐息まで細波のように肌を伝った気がする。邪魔な盆は洗い場の床にどけられて、カカシは飽きることなくイルカの髪を梳いていた。幾分か水気を含んだ髪はいつもより重いらしく、筋を描くように指先が滑っていく。

「もーちょっとだけ、こうしてましょ」

 洗面台の電球はほんのりと色を纏っている。夕焼けが始まりだした頃のオレンジ色は、人によってはそれも白だというかもしれない。淡い暖色に照らされたカカシは、やわらかく陰影がついていた。揺れる湯面が光を反射してきらきらと輝く。
 甘えるようにカカシの膝へ額を付けた。梳く指先はその動きに逆らわず、頭頂から後頭部へ滑って項あたりで遊んでいる。
 囚われているようだ
 額や顔の上部に触れるカカシの肌と体温を享受しながらイルカはそんなことを思った。このちいさなちいさな世界、薄闇の中、切り取られた空間には二人だけしかいない。カカシと自分しかいない世界で、頭は抱き込まれていて。
 見方によれば許しを請う男に見えるかもしれない。どんな懺悔が自分の中にあるのかわからないけれど。そんな想像がおかしくてひっそりと笑えばそれでも胸が震えたようで、また湯面に波が立った。カカシが聖職者に見えるわけがないし、母性を持つ女に見えるはずもない。イルカが縋っているのは現実だとしてもそれは違うのだ。

「せんせー?」
「はい?」
「…結局、なんで風呂場の電気つけてないんですか。あ、俺は一緒に月見しようと思って遊びに来ただけですからね」

 風呂まで入っちゃって、予定通りに言ってないですけど。常よりカカシの声がやさしいと思うのはどうしてだろう。雰囲気に流されているだけかもしれないけれど、変な悪戯もしかけてこない。

「別に理由があるわけじゃなくて…その、つけてないんじゃなくてつかないんです。風呂場の方の電球が切れちまいまして。買い置きもないし、今から電気屋に行くのも面倒で、それでつい」

 声を上げてカカシが笑った。今まで音なんてそこら中に溢れていたはずなのに、確かに感じていた静寂はとたんに掻き消えてしまう。窓越し、周囲の生活の音でさえ、此処は確かに外界と繋がっているんだと確認させるものに変わってしまう。

「そんなに笑わないでくださいよ」
「いや、うん、あはは、別に笑うとこでもないんだろけど、ふ、ごめん、ツボに入ったっ」

 口元を押さえてうつむいたカカシの肩がまだ震えている。こらえているせいかなんなのか耳まで少し赤い。

「だってせんせぇ、めちゃめちゃ情けない顔して言うんだもの」

 あはは、喉を鳴らさない明るい笑い声はカカシの中で好きなもののひとつではあるのだけれど、笑われているのが自分ならまた話が違う。いや、笑っているのは好きだ。単に恥ずかしいだけで。…惚れた人間に笑われているのは流石に悪気がなくても恥ずかしい。こんなのに階級は関係ない。

「そうだね、しっかり雰囲気出すなら灯りは全部消して提灯やら蝋燭やら持ってきたら綺麗なんじゃないかなぁ?イルカせんせ、あんまりそういうのに興味ないもんね。そうなったら誰より楽しむタイプだけど自分では思いつかないひとでしょ」
「あいにくとロマンチストではないようで」
「拗ねないでよ、別に悪いって言ってるわけじゃないでしょ。いや、なんでこんな風流なことしてるのかと思えばそうか、電球切れね…」

 くくく、とカカシの喉が鳴る。

「子供の頃からしてたことですけどね、つい、懐かしくて」

 言い訳のようにそっぽを向いて呟けば拗ねないで、とカカシがキスをくれた。

「いやいや十分ロマンチックですよー。俺は」

 べろりとおおきく頬をひと舐めされる。

「うれしかったし、たのしいです」

 カカシが意外と言うべきか流石イチャパラ愛読者と言うべきか、型にはまった「ロマン」なるものを好むのに、自分がそれを用意できないことを前々から自覚していた分くやしいやら不甲斐ないやら。さっきまでと淡い光はかわらないのに、空気が変わってカカシの輪郭がはっきり見える。

「ほんとですからね」

 楽しげにまた髪を梳くカカシは綺麗に笑んでいるから、間違いないのだろうと思う。ありがとうございます、とだけ言って風呂を出て身体を洗うのに専念していると、カカシも何を思ったかその後は時たまイルカの知らない異国の歌を歌う程度で大人しくしていた。



 布団に寝そべっていてもカカシはまだイルカの髪を梳いている。生乾きの髪が枕につかないように、うつ伏せになって資料を読んでいるとカカシが背中を枕に寝ころんできた。

「せーんせー」
「はーい、なんですか」
「今日はおとなしいですねぇ」

 いつもならかまってくれるなり邪険にするなりもうちょっとなんかあるのに、静かですよ。ぐりぐりと顔を背中に擦りつけられて、痛いようなくすぐったいような、しあわせなような感触がする。
 また歌い出したカカシの声が眠りを誘う。
 秋は色々と忙しい。過ごしやすいせいかイベントが山と予定されている。アカデミーでも文化祭に運動会、遠足、演習旅行、上半期からの人事再編、たくさんの休日と祝日、月見、ナルトの誕生日、慰霊祭。そしてカカシの誕生日。たくさんの色々を、できるだけカカシと過ごしてきたか、過ごすか、と言われたら素直には肯けない。お互い大人の男で忍びだからだ。

「別になんていうことはないんですけど」

 うとうとと答えればカカシのやさしい指先が瞼を覆うので逆らわずに目を閉じた。
 いつもはぺたりと甘えてくるくせに、こうやってカカシはこちらを甘やかす。したいからしているんですよ、と言って、いっそ過保護なぐらいに甘えさせるし、またそれが上手いのだ。
 月見だなんて、普段の中では埋もれてしまっている行事になっているだろう。実際少し前にカカシの誕生日を祝ったわけだし。


「ふつうに、してたかった、んですよ」
 でも、ひとりではなくふたりで。


 肌触りのいい布の感触、きっとカカシが掛けてくれたのだろう。夏の終わり頃、涼しくなったら使いましょうね、と二人で揃いのものを買ったのだっけ、半分寝ている頭で思い返す。

「うん、おやすみなさい」

 やさしい声。やさしい指先。
 おやすみなさい。
 口の中で呟いた返事はカカシの耳に届いただろうか。
 あたたかな薄闇に沈んで行きながらイルカはそれだけを思った。

 ふつうに。かわっているけれどかわりなく。


 …朝にイチャイチャえっちしましょうねぇ、だなんてカカシの呟きはいつもどおり過ぎて聞こえなかった、と思うことにして意識を手放した。














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初出/20050918/コピー本「Cry for The MOON」

2005年の秋、カカ受オンリーで作ったコピ本。
静寂という和菓子は実在します。たべたことないけど。
これも日常ほのぼの話として書きました。
お風呂は面倒くさいときもあるけど楽しい娯楽です。