ジャワジャワと蝉が五月蠅い。 騒音とだんだん上がる室温に無理矢理起こされれば、俺を抱き込んでいたはずの腕がなかった。何時眠ったかは覚えていないけど、夜中にふと目覚めた時、頭をイルカに抱えられていたようだったから。 触れ合っていた自分以外の体温なんて、夏の温度に掻き消されてしまう。 タオルとか干してた服とかイルカがこのせまい部屋に持ち込んだちょろっとだけの荷物達、それと枕元にあったはずのセブンスターがない。 灰皿がわりのところどころへこんだミニバケツの中には、俺と違って噛み跡がはっきり付いた吸い殻が転がってる。バケツの中には三本。殆ど吸われることなく形を残して燃えつきたふたつと、ギリギリまで吸い尽くされてフィルターは噛み潰されているひとつだ。 そんなものだけが跡だなんて言うな。 シングルマットの上で俺が片側に寝ていたこととか。 壁際まで寄ってしまってるタオルケットとか。 ……俺の指や、全身の記憶。 「────ッ」 半身を起こして放心していた俺は弾かれたように外へ駆け出た。 何時も鍵をかけないドアまでは大股で幾歩もない。 勢いよく開けて。 …何処へ行けばいい? 裸足が太陽であたたまったコンクリートを踏んだ瞬間、固まった。 イルカはどこへ行った。 遅れて、いちばんの疑問が漸く頭を掠める。 なんでなんで、どうして。 ぺたん、一歩前に歩けばもうそこは廊下の錆びた柵しかない。見下ろせばぎゃいぎゃいと五月蠅い小学生ぐらいのガキどもが笑い合いながら通りを駆け抜けていった。 たった一階分の距離なのに、見下ろすこの場所は酷く現実感がない。 「何なんだよ、ちくしょー…」 柵にべったり腕を付けて、額を重ねる。 サンダル焼けした自分の足の甲しか見えない。 イルカ。イルカ先生。 そーいやあの人はスニーカーだったっけ。 俺と散歩に行く時だけ踵を履き潰していたあのひとは、真っ白に青のラインが引かれたスニーカーをひっかけて、 どこに 行ったの。 「カカシ?」 聞き慣れた、でも今はどうでもいい声がして俺は酷く緩慢な動作で顔を横に向けた。 「紅…」 「あっきれた、今頃起きた?」 そういえば、出かける約束をしていた気がする。 ちょくちょくつるんでいる女は俺にことば通り呆れた視線を寄越すと、それから少し頬を染めた。 「ゆうべ遅かったからねぇ」 お前の考えたことは正しいよ。 ま、パジャマの下だけテキトーに身につけた姿で、気怠さも隠さずにいりゃわかるヤツにはわかるもんだから。身体に、俺の身体には、跡がないけれど。 何も言わないで、視線をやはり下に戻していると紅は空気を変えようとしてかさらりと言った。 「そーいやあのイルカ先生って人はもう帰ったの?」 ゆっくり。 やっぱりゆっくりと、俺は視線を流す。 「さっき、公園のとこで。見たけど」 散歩の最中、紅にもイルカを紹介したことがある。 頭のイイ、しかも女だから見間違うことはないだろう。 あの時は懐かしくて嬉しいイルカとの時間を邪魔されているようで、ほんの少しだけ腹立たしかったけれど、こころの底から感謝する、よ。 「そう」 いつもの飄々とした口振りで言えたと思う。 ああ、俺が戻ってくる。 「もうみんな集まってんの?」 「アスマの車で拾ってってる。最後に此処寄るってさ」 「ふ〜ん」 ジャワジャワジャワ、蝉が五月蠅い。 何時も通りの会話を交わしながら、でもさっさと家に入って脱ぎ捨てていたTシャツへ乱暴に首を通す。 「くれないー」 「何よ」 「ごめん今日俺抜けるわ。また今度呼んでくれ」 ぽん、と肩に手を置いて、そこを支点に俺はスタートダッシュをかけた。 二人で並んでアイスを喰った公園に、イルカは俯いて座っていた。 いつも括ってる髪がぐしゃぐしゃのままで肩に流れている。 後ろから近寄った俺は項にいった視線を無理矢理引き上げた。 「何してん、の、」 息が切れてしょうがない。膝を芝生に付けて問えば、少しだけ泣いたのか目元を赤くしたイルカがぽろりと零した。 「すみません」 「何が」 「だって」 『だって』だなんて、一度も俺に使ったことがない言葉。 「だって、俺、どうかしてたんです。すみません。ごめんなさい。…いきなり来たのも、本当に、こうなると思ってなくて、俺。ごめんなさい。もういきますから、めいわくかけてすみませ」 ちいさなこどものように繰り返すイルカを遮ったのは、俺の馬鹿笑いだった。 げらげら声を上げて笑うもんだから、ひなたぼっこしてる人とか散歩してる人とかバドミントンしてる人とか、なんとも平和な光景の一部がえらく注目してくる。あっけにとられた涙濡れの顔がまたおかしいんだ。 「イ、イルカせん、せ、何その顔、すっげーぐちゃぐちゃ…あはは、めちゃくちゃブサイクッ」 「なッ」 「ひっどい顔!」 「何ですかッ、言わせてもらいますけどねぇ、カカシさんだって酷いもんですよ!?寝癖すっごいし!よく見りゃあんた下パジャマで馬鹿ですかそのかっこ 「勝手にどっか行くなよ、馬ぁー鹿」 「…泣いてんじゃなーいよ」 俺の、イルカ先生。 捉えた手を思いっきり握りしめた。 「お、カカシの野郎はどーしたよ」 「さぁねぇ。なんかワケありの顔してたけど」 「ワケぇ?」 くすくす、笑う表情は女のモノ。 「何だか知らないけどね」 ────コイビト追っかけて行っちゃった、よ。 fin
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