『木漏れ日カンタータ』

 






「またかよ!」
 どんがらがっしゃーん、と景気のいい騒音が庭に響き、ランチアは顔を上げて一つの窓を睨みつけたようだった。本人に睨みつけたつもりはないのかもしれないがその表情は十人に八人ぐらいは睨みつけていると表現するだろう、程度のものだ。
 次いで聞こえて来た大きな声はランチアを呼ばずに呼んでいる。
「坊──!坊はどこだあ、おーいお前ら俺の坊を隠してんじゃねえぞー」
「隠してねえってってってって、ああもうっボスそれはランチアじゃない離せ壊れるってもうランチア!お前聞こえてんだろ早く来ねえかばかやろ!」
 底抜けに明るい声と破壊音、言葉遣いは乱暴ながら泣きの入った罵倒は同じ窓から零れている。
「今行く!」
 叫び返しながら室内を目指すランチアには様々なものが降り注いでいる。穏やかな昼下がりの光、ちらちらと大きな木の葉影、ぼんやりと扉前の石畳で銃を解体している老人の視線、他の窓から零れてくる声。
「おー我らがボスさんは今日もご機嫌だなあランチア、はやく行ってやれよ〜。あのままじゃまたひとつふたつ部屋が壊れるぜ」
「……、急いでるんだこれでも!」
 戯れに窓から落とされる障害物(それは本だったり枕だったりナイフだったりクッキーだったり、ほんの時たま銃弾だったりする)の大体をゲームのように避け(食べ物は受け止めた)、惜しいだの後ちょっとなのにすばしこい奴めだの好き勝手な言葉の雨を全身に浴びながらランチアは漸く屋敷に入る。重々しい造りの階段を跳ねるように二段飛ばしに駆け上がり、目的のドアを開けて勢いのまま転がり込もうとしたらそのままふっと持ち上げられた。全力の勢いを何と相殺させたのか、細長い体躯はやけにすんなりいかつい腕に掲げられる。胸に抱き込む形になっていたクッキーが袋の中でじゃり、と音を立てた。
「ボス」
「おおおお、坊、そこに居たか!」
 酒臭い息と容赦のない抱擁に溜め息をつきつつも、ランチアが抵抗することはない。それが無駄だと経験で知っているし、それ以上に抵抗するつもりがないからだ。正直に言えば、恥ずかしいという照れの気持ちは残っているけれど。
「ボス、何の用だ」
 ぶらん、と脱力した両足が揃ってゆらゆらと揺れる。振り子のような自分の足をちらりと見やってから今は見下ろす形になる己のボスを窺えば、髭と皺を従えた口元がにやりと持ち上がった。
「いい酒が手に入ったんだ」
 いつもいつも酔っているような、それでもファミリー全員の信頼を集める、ボスというイキモノをきっちりまっとうしている男はうれしそうにそう言ってランチアを床に下ろした。
「坊も飲んでみるかー」
「ってボスせめてランチアがうんとかなんとか言ってからにしろってかそんな無理矢理突っ込むなこらこんな細っこい奴によ!」
 酔っぱらっていても何かあればすぐに酔いなどどこかに消えてしまう根っからのマフィアに、本気でなくともそれなりの能力を発揮されてしまえばまだ少年の域にあるランチアに敵う術があるはずもない。酒瓶が見えたと思った瞬間には口元に突っ込まれて容赦なく傾けられていた。やっぱり涙混じりにツッコミとも言えないものを叫んでいる情けない姿の幹部の声が脳に響いているのに、舌で感じる刺激と熱さでランチアはそれどころではなくなってしまう。
「〜〜〜!!!」
「ああほらもう、いくら普段ちょいちょい飲んでるからっていきなりストレートでそれはねーだろ!」
 ぺらり、とまるで先月のカレンダーをめくるようにランチアはボスから取り上げられ、口元にコップを当てられる。味よりも何よりも刺激を薄めたくて急いで中の水を飲み干せば、ほう、と安心したかのような息がすぐ近くで聞こえた。涙目で周囲を探ればどうやら容赦ない力で殴られたのかボスが頭を抱えたまま蹲り、しゃがんだその向こうには婦人の姿があった。
「おはよう坊、よく眠れた?」
「あ、はい。疲れてたし」
「そ。ならよかった…あらボス、いらしてたんですか。気づきませんでした」
 きびきびとした動作で部屋の中を進む婦人は窓を大きく開け放つと、換気しなきゃね酒臭い、と呟いてランチアに何かを投げて寄越した。
「サンドウィッチ。坊の好きなのまで食べ尽くされそうだったから包んで来たよ」
「あ、ありがとうございま」
「右ちゃんのもあるんだよ。ピクルス、ガーキンスだけのやつ、好きでしょ」
「あああああありがとうございます……!」
 ファミリー中の誰からもボスの右腕だと認められているというのに、なんだかえらく腰の低い幹部は何故だか婦人から右ちゃんと呼ばれている。マフィアには似つかわしくない可愛らしい呼称だとは思うが、妙にさばさばとしたこの女性の口からその言葉が出るのはいっそうかわいらしい気がして、ランチアはこっそり好きだと思っていた。響きがいいのだ。なんとなく。それはボス夫妻がランチアのことを坊と呼ぶのと同じぐらいあたたかい響きを持っているように思える。
「お、俺のは」
「ありませんよ。みんなちゃんと残してるでしょうし」
 あまりにもつれない様子はある意味でいつも通りだ。同じような生業の中で出会って結ばれたらしい二人の力関係は正直なところランチアにはあまりわからない。
「坊はもっと一杯食べなよ、そんながりっがりの身体して!成長期にはちょーっと早いかもしれないけどさあ、一杯食べて動いて女口説いてふられていい男になって、あたしをエスコートしてくれなきゃあ」
 からからと笑う婦人の口元には派手なぐらいの紅がひかれているけれど、状況によっては毒々しい程の色気をともなうそれが今は健康的にさえ見えるのだから不思議なものだ。
「俺が?」
「そうそう、背だって伸びるし筋肉も付くだろうし。そんでそのまま強くなっていくんだろう?あたしだって若いツバメ侍らかしたいんだからね、その筆頭は坊でなきゃあダメだよ」
 言って婦人は手近にあった酒瓶を手に取り、口をつけて幾らか飲んだ。何かに気づいたのか喉が一度鳴った後、視線はラベルに移される。
「あれ、右ちゃんこれ」
「黒いのです。ボスがなんかコネとかいろいろ使って何本か手に入れて来て、……ってぇっ」
「飲みたいって言ってたろ」
 右腕にのしかかるようにして言うボスは婦人と目線を合わせはしない。へえ、と一度まばたきした婦人はボスをじろじろと見て、それからランチアから見ればボスととてもよく似たやり方でにやりと笑った。
「こーんなもったいない飲み方させてくれてありがとう、ボス」
 言って口付ける動作は手慣れているという表現がぴったりだ。ある程度見慣れているとはいえ何も言えずにランチアが固まっていると、横ではあ、と右腕の溜め息が聞こえた。ランチアは彼が溜め息をつかなかった日を知らない。
「坊、昨日の続きは午後って話だったけどキャンセルね。また後で色々仕込んであげるから覚悟しときな」
「おーいガキに何教えてんだ」
「強くしてるんですよ、あたしのためにね。坊は見込みが在るから」
「お前がそう言うなら相当だなあ、坊だもんなあ。我ながら俺の人を見る目は素晴らし過ぎて恐ろしいぜ」
 あはははは、笑う声は酒の匂いが薄くなった室内で、いろんな壁にぶつかってから外へ転げ落ちてしまった。きっといろんなファミリー達の耳に拾われていることだろう。そうして確実に、ファミリー達もそれぞれのやり方で小さく笑っているに違いないのだ。ここがそういうファミリーなのだと、ランチアは拾われてからの日々で十分に知っている。
「はは」
 さりげなく右腕に背を押されてお菓子とともにサンドウィッチの包みを腕に抱え直す。お邪魔だからそろそろ行こうかという合図で、それにはランチアも賛成だった。これ以上ここにいるのは流石にいたたまれない。だんだんと触れ合いが深くなっていく夫婦の営みをできるだけ視界に入れないようにしながらすぐ側のドアを目指し、それでも、と頭を下げた。
「ええと。ありがとうございます、酒も。これも」
「なんだ他人行儀な。なんなら混ざってけ」
「ボス!」
「うーんそうだねえ、いっかいぐらい誰かに失恋したら混ざっていいよ」
「奥方まで、こいつからかうのは止めてくださいよもう…」
 とんでもない誘いに硬直したランチアの首根っこを掴んだ右腕がまた溜め息をついた。そのままずるずると引き摺られて退場するランチアに身体の自由はない。
「お前もちょっとぐらいかわせた方がいいんだけどな…なんなら今度おねーちゃんの店にでも行くかあ?お前ならちょっとしゃべってりゃ奥方みたいに可愛がってくれるおねーちゃんもいそうだしな、うまいことやって遊んでもらえよ」
「ヤだ」
 唐突に解放され、身体のバランスが上手く取れずにわたわたしているところに大きな手のひらがランチアへ触れた。乱れることも気にせず黒髪を掻き混ぜる動きは、荒々しいのにやさしく、そしてどこまでもわかりやすく大人の男のものだ。離れていく指先に刻まれた傷痕をなんとなく目で追いかけながら、ランチアは目の前の男に染み付いている硝煙の匂いを感じていた。
 記憶がおぼろげな幼い頃、路地裏で生きていた頃はこの匂いはとんでもなく恐ろしいものでしかなかった。命の奪い合いに巻き込まれることは、今とは違う意味でいつ死んでもおかしくない生活の中でも怖かったのだ。
 だから幼い頃のランチアは硝煙の匂い、死の匂いに敏感だった。発生源から逃げてしまえば巻き込まれることもないし、下手に力を持つものの手慰みになることもない。生きていくため、酷く単純に必要な能力だったのだ。それが。
「ん、なんだ?」
 銃を撃つことにもそれなりに慣れた。肯定することは難しいけれど結果的に人の命を奪ったことも多いのだろう。銃よりも与えた痛みが多少は自身に跳ね返る体術の方が好みで、スペシャリストの奥方に稽古を付けてもらっている。あまり積極的な性格ではないとランチア自身も自覚しているつもりだが、純粋に身体を動かすこと、強くなること、はただ好きなのだ。そこに命のやり取りが絡むことはほんの少しだけさみしいけれど、このファミリーのためならば厭う理由がない。
「なんだお前じっと見て、俺に惚れたか?」
 かっかっか、大きく口を開けて笑う。
 それができることはとんでもなくしあわせなのだとランチアは知っている。おそらくここのファミリーとして生きる者たちは皆同じだ。
「まさか」
「俺だってお断りだ、奥方に殺されちまうし愛人に今んとこ空きはねえんだよ」
「は!」
 思わず声に出して笑えば生意気な、と首に腕をかけられるのをするりとやりすごし、ランチアは口を開けて笑いながら庭へと走り出た。腕の中のお菓子はかさこそと音を立て、呼吸の合間に湿度をともなうやわらかなパンの匂いがランチアまで届く。きっと中身は好物だ。たとえ好物でなくても好物になってしまう、そんな素敵なものだ。
 石畳の上の老人は銃を組み立て終わったらしい。たしか紅茶のクッキーがあったので向かって放り投げれば、老人の遥か頭上を飛んだクッキーの袋は一瞬の早業で撃ち落とされて老人の手のひらへすとん、と落ちる。前髪で見えない瞳へ親指を立ててみせれば、好物がお気に召したのか、ぐ、と老人も親指を立てた。こうしたお裾分けも日常の一部。
 どこで素敵なものを食べようか、それだけ考えてランチアは走った。まだひょろひょろと少し長いだけの身体も僅かずつ筋肉が付いて来たように思う。明日の午後にはまた婦人が組み手の相手になってくれるだろう。そうして自分は、強く、きっと何処までも強くなっていくのだ。ここにいるために。ファミリーのために。自分自身のために。
 しあわせのために。
 いつかもっと大人になって、今日飲んだ酒を美味いと思えれば、あのひとたちと美味さを共有出来ればいい、そんなことを考えながら走り出した足はまだとまらない。

 強くなる。
 しあわせに。

 願いはランチアとともに走り出し、やがて風に乗ってもっと先へ行ってしまった。
















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一番書いてて楽しかった話でした。チアファミリーはこんな感じかなと。
酸いも甘いもよろこびも、そしてかなしみも全部教えてくれた人たち。