※十年後?ハルとランチアさん 一人で住む家はそう広くない。 ベッド(これは流石にトールサイズになった)と小さな棚がひとつづつの寝室、最小限のものだけあるキッチン、ところどころ傷のあるテーブルに揃いの椅子がみっつ、ソファひとつのリビング。申し訳程度のユニットバス。 帰宅する途中から感じていた気配は勘違いではないらしい、とランチアはドアを開きながら思った。生業柄、鍵の存在など形ばかりだがそれでも毎回きっちりと施錠しているはずだ。 鍵を差し込んで回すという動作が必要なかったのは問題だが、どうにも心当たりが多すぎる。 それでも短い廊下を進むうち、キッチンから漂う温かな湿度で侵入者のあたりをつけた。 「おかえりなさいです!ちょうどできたとこですよ、ランチアさん」 「……そうか」 今までに何度か繰り返されている会話でも、まだ第一声ではただいま、と口にできない。肩で切り揃えられた黒髪が振り向く動作でさらりと流れるのを見て、ランチアは自覚しないままに少しだけ眉を下げその名を口にした。 「何かあったのか、ハル」 それはまあ何にもないとはとてもじゃないけど言えませんハルだって今はこうしてイタリアにいるんですもの、でもとにかくハルスペシャルランチがあつあつのうちに食べてください冷めたら美味しくないしご飯に失礼です! ほぼ一息に告げられた言葉にランチアが返せたのは頷きぐらいのもので、とにかく侵入者にもてなされる家主にできることと言えば、あたたかな料理に舌鼓を打つぐらいだ。 日常のたわいもない話を交わし合い、食後のお茶の一杯めを飲み干す。そうしてからハルに視線を向ければにっこりと笑顔が返された。 「美味かった。『ご馳走さまでした』」 「お粗末様でした」 沢田家で教えられたように手を合わせて一礼すれば、ハルもぺこりと頭を下げる。 「満足してもらえたならハルだって満足です!」 「ああ」 口調は違えど滲むものが沢田奈々と同じだな、などとぼんやり思いながらランチアはシンクへ向った。ハルが後を追ってくるが、これぐらいはやらせろ、とソファの方へ座らせる。ランチアが食器を洗い始める頃には、ハルはソファに身体を沈めているようだった。 「今日は甘えに来たんです」 「……そういう風に言うのはお前ぐらいのものだ」 「ハルだっていつもいつも頭脳明晰な三浦女史でいるわけじゃないんですよ!ま、ランチアさんはご存じだと思ってますけど」 「そうだな」 今日は晴れていて風が気持ちいい。キッチンの小窓を細く開け、ランチアは片付けの続きに取り掛かった。背中でソファの軋む音とハルの声を受け止める。 「ツナさんがしばらくランチアさんに会ってないって拗ねてましたよ?みんなは会ってるのにずるいって」 「マフィアのボスがそう簡単に出歩くわけにもいかんだろう。仕事ではたまに会っているんだし」 「でも、そのうちまた押しかけてくると思います。ハルだけじゃなくてツナさんもみんなも」 「……。そうか」 溜息にも満たないものを零せば、ハルが声をあげて笑った。 「よく笑うヤツだな。もう髪は伸ばさないのか」 「長い方がお好みでしたか?」 「そういうわけでもないが」 切って大泣きしていた現場に居合わせたものとしては気になるところだ。 カチャカチャと食器が触れる音に紛れて告げられた内容に、ハルが頬を染め膨らませる様は、出会った頃ぐらいのハルを彷彿とさせる。気配だけでなんとなくそれを感じ取り、ランチアはシンクに向かったまま低く喉を鳴らした。 「古いお話を持ち出さないでください!確かにお世話になりまくりましたけど、あれはランチアさんがずるいタイミングで登場したのが悪いんですっ」 「ずるいと言われてもな」 「ずるいったらずるいんです!……それに、あの時みたいに失恋して切ってるわけじゃありませんよ」 ふふ、と笑い声にランチアは振り返った。常通りの笑顔があると予想していたのに、そこに浮かぶのは知らないものだ。正確に言えばランチアが生きてきた中ではさほど珍しくもない表情のひとつだが、それがハル自身に浮かんだのを初めて見た。 「ハルはドン・ボンゴレの愛人ですから。それに」 ──隼人も武も了平も恭弥も、それこそランボもイーピンも。 焦がれるものは皆十代目の愛人でしょう。 私も。もちろんランチア、貴方も。 おそろしく完璧な発音のイタリア語はまるで歌の一部のようだ。 告げられた内容よりもまずそこに感心してしまい、それからランチアはやはりこの女は賢い、とそんな感想を持った。 「なるほど、俺もか」 「はい!もちろんですよ」 「こんな大男が愛人というのもどうかと思うが……まあ異論はない。今の話でいくならお前だって旦那の正妻とボンゴレの愛人を兼任しているということだろうし、何でもアリなんだろう」 「そうですね」 ふふ、もう一度笑うハルの顔は見慣れたものだった。口元を覆い隠す左の手の薬指には堂々と指輪が輝いている。それはとても簡単な拘束の証だ。 「ランチアさんとハルは愛人仲間なのです!だから甘えにきたんですよ」 「甘えさせてるつもりはないんだが」 「いーえ、甘えてるんです。ついでにツナさんへのあてつけです!今日はいっぱいいちゃいちゃしましょう!」 お菓子もお茶葉もカードももちろん持ってきました、今晩は寝かせませんよ! 色気が在るようでない言葉に思わず肩を揺らして笑う。 なんだかんだとこちらが甘やかされているのかもしれない。それは時折この家を訪ねてくる何人か全てに感じていることだ。 カードの相手としてはかなり手強い愛人仲間とやらの髪を撫でて掻き回し、ランチアは戦いを始めるべくテーブルの向かいに腰を下ろした。
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