「沢田さん」が「家光さん」になって、つい最近からは「家光君」になった。 世間的に見てもそれは昇格しているのだろうし、実際のところ関係はもう友人より恋人に余程近い。よっつ年下の彼女は今日も、ほんの一歩先を歩きながら笑っている。 奈々の一歩後ろを歩くのはもう癖みたいなものだ。 出会った頃から変わらず、しっかりしているのにふわふわとした感触の彼女はいつもそのまま、ふわんと歩いている。それは少し危なっかしいものでも、彼女の愛すべき性質のひとつには違いない。先を歩いて道を作ってやることなんて簡単だけどもったいなくて、軽やかな足取りを見ながら家光はいつも奈々について歩く。 「家光君」 ふわ、と振り返る動きで長い髪が揺れる。やや色素の薄い髪は太陽の熱を浴びてあたたかそうだ。 「ん」 「どこに行く?」 そうだなーと答える頃には奈々はもう前を向いていて、家光は襟足を掻きながら空を見上げた。視界は何か白い布越しに青を透かしているような色彩でいっぱいだ。手を伸ばしたところで届かないのはわかりきっているのに、それでもどこか印象が遠い。 「家光君」 呼ぶ声が横から聞こえたことに驚いて右を見ればそこで奈々が笑っていた。 呼んで、目が合って、微笑む。 それは今までどれだけ繰り返されて来た流れだろう。ほんとに普通の女なのに。いや少しおおらか過ぎるきらいはあるが、なんの変哲もない普通の女、だ。 正直なところ、奈々の隣を歩くことは少しだけ恐ろしかった。対立するファミリーの狙撃が気になるとかではなくて、もっと家光の内面的な部分での問題だ。憂いたことなどないはずの生き方がこんなにも臆病にさせるだなんて知らなかった。知らないままで、全てをファミリーに捧げるなんとも分かりやすい人生を終えると思っていた。それなのに実際は今こんなにも、横に立つことすら恐れ多いだなんて馬鹿なことを考えてしまう。 普通であることの尊さなんて、とっくにわかってる。 そう信じていたのに。 「こんな男が、若獅子なんざ呼ばれてるんだからなぁ」 「え?」 「いや、なんでもないよ」 思わずこぼれた言葉は奈々に拾われてしまったらしい。苦笑ひとつでごまかして、家光はゆっくりと目を閉じた。瞼の裏にはまだ薄青い空が広がっている。 覚悟を決めるべきだと、誰よりも家光自身がわかっている。背を見守っていれば振り返り、畏れて距離をとれば簡単にその分近付いて、どちらにしろ笑うのが奈々なのだし。 そんな奈々だからこそ、自分勝手に作った距離をなくしてしまいたいと思う。目を開ければやはり空はうつくしく遠い。 「あら」 触れると距離はどこまでもゼロに近くなる。今まで禁忌に近かった行動を自らに許したところで、言葉にすればただ手をつないだだけ。それでもやわらかな熱は簡単に家光の心拍数をあげた。 あら、はないだろう! 八つ当たり気味に思ってもその感じる体温と気恥ずかしさに頬が染まっていくのを自覚して、思わず視線をそらす。他人の温度なんて珍しくもなんともないし、バカバカしいほど触れたはずなのになんたる様だ。手のひら、指先だけでこんなにも情けない。 「ふふっ」 右頬に刺さる視線がやけに痛いから、じっとこちらを見ているのだろうと思う。。きっと見れば奈々はとんでもなく良い顔で笑っているんだろう。簡単に予想はつくけれど、大事な笑顔を見たいという願望より、照れを見られたくないというちいさなプライドが勝ってしまうのは許して欲しい。 「家光君、どこに行く?」 そうだなーと答えながら手を引けば、奈々から一度ゆるく握り返された。それでも熱が離れることはない。家光の葛藤など奈々が知るわけもなくて、それは当たり前のこと、とたぶん二人ともが知っている。 どこへ行こう? 家光はまだ頬を染めながらも決めてしまっていて、横に在る特権を許してくれた、触れるあたたかな感触は愛すべきもので、そして薄青はとおくうつくしいので。 あてのない散歩はいつものことだし、ただ手をつないで。 答えはきっと。 この空の下どこまでも、だ。
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