泣くものか泣くものかと唇を噛みしめていると、ふいに目の前、足下に溜まる自分の影がもっと大きいそれに飲み込まれてしまった。続いて見えたのは自分の倍ほど大きい男物の革靴。 顔を上げれば見たこともないおおきないきものがしゃがんでいて。 「ウチに来るか?」 とどうやら人間の言葉を話したので、わたしは頷いたのだ。 『唐撫子』 朝日が眩しくて目が覚めた。 時計をちらりと見ればいつも起きる時間に変わりなく、それに満足して紅はひとつ伸びをしてベッドを降りた。身繕いして廊下に出ると、向こうから大きな体躯が厚手のコートを肩に引っかけて歩いてくる。 「アスマ」 「おう」 おはよう、と口にする前に気付く目の下の隈。紅はとりあえず挨拶してから腕を組んだ。言われ慣れている言葉を察知したのか、アスマは苦笑いを浮かべながら煙草に火を付ける。 「また朝帰り?無茶し過ぎよ」 「しょーがねぇだろ、忙しい時期だからな」 「……」 そう言われてしまえば返す言葉もない。口うるさく小言を浴びせるのは趣味じゃないが、身体を壊す羽目にだけはなって欲しくないのだ。思わず俯けば、おおきな手のひらがぐいと身体の方向を変えて押し出してきた。 「ほら、朝飯今からなんだろ?さっさと腹に入れるこった」 やさしい言葉。おおきな手。布越しでもわかる骨と関節の感触。 「う、ん」 ほんの少し声を詰まらせたのにアスマは気付いただろうか。 背中に感じる熱を避けるため、大股に一歩踏み出した紅の長い髪はアスマの指先を撫ぜて離れた。 煉瓦造りの屋敷に、従業員は通いのコックと家政婦、庭師が一人ずつ。それが猿飛アスマという男の住む家だった。そしてもう一人、夕日紅という人間の。 そう広くない食卓の上には朝と思えないほど豪華な食事が敷き詰められている。紅はパンにスープ、サラダだけ自分の前に寄せると残りを向かいのアスマへ押しやった。 「ほら、晩ご飯食べてないんでしょう。おばさんがアスマ用に作ってくれたんだからしっかり食べなさいな」 「へいへい」 ひらひらと手をふって流したアスマは、それでも煙草を灰皿に押し付けてからひょいひょいと体格に見合った勢いで口に運び出した。しっかり食べないと何も出来ない、幼い紅にそう言い聞かせたのは他でもないこの男なのだ。信条をしっかり体現する様子に紅は満足し、自分もあたたかなスープを口にする。 「まだ暫く忙しいんでしょ」 「まぁな。またお偉い方が規制を変えたもんだからその対策に追われてるってわけだ」 「ふうん…」 「どうにかする。心配するなよ、それに明日あたりカカシとイルカが来るぞ」 耳にした名前に紅が顔を上げる。見据えた先のアスマは食事の勢いを止めることのないままにやりと笑って見せた。 「ホント!?」 「嘘言ってどうするよ」 「やった」 言って紅は笑う。その笑顔が年齢よりも幼く見え、アスマは咀嚼を止めて口の中身をごくりと全て飲み込んだ。そうしてから一度首を振る。 …何度もみている表情のはずだ。なによりもまだ十代の少女なのだから幼いのは当然。そう、こころの内で呟いてみる。 「楽しみにしてるわ、絶対私にも顔を出すように言ってよ」 いきなり上機嫌になった紅はぱくぱくと朝食を平らげ、軽い足取りで自室へと戻る。今日だって学校があるのだ。そうして紅は背中にあたる視線には気付かないまま、部屋を出た。 朝の一分は下手をすると宝石よりも貴重だ。 忙しなく部屋を駆けめぐる。 「あ〜もう、昨日の晩やっておけばって毎日思うのに…!!」 時計を睨みつけながら学校へ向かう準備。 ふいに目に止まった本棚の一部、もう二桁も目前になった日記帳達に手を沿え、一番端のものをついつい引き出してしまう。 この日記帳も最後の幾枚かを残すだけだ。 「また一年、か」 また一年。それでも今回は事情が違う。次は十六歳、になる。なってしまうと言うべきか、漸く向かえることが出来たと言うべきか。 つい、と布貼りの表紙を指で辿る。 一番最初の日記帳を抱え、すっかり自分の空気で一杯になっているこの部屋にやってきた日のことを思い出した。 この屋敷にやってきた日。 そこから数えだした誕生日。 紅がアスマに引き取られたのは十に満たない子どもの頃だった。 紅自身はよく覚えていない。むしろ引き取られる前の記憶だって曖昧だ。 周りの人間に聞かされた話では、引き取り先を押し付け合う大人達の中にアスマが突然顔を出し、ひょろりと痩せた紅を見て「こりゃあいけねぇ」と呟いたらしい。 「ウチに来るか?」 その一言は何となく覚えている。頷けばあっという間に抱え上げられ街に連れられ、どうなっているのか状況が飲み込めないままに家財道具をそろえられた。布貼りの日記帳はその時に買って貰ったもののひとつだ。日記が書きたかったわけではなく、その赤い布に惹かれていただけなのだけれど、見つめていればひょいとアスマが購入してしまった。 最初の晩、アスマはまだ目を見開いている紅を自室に呼んでこう言った。 「俺のことはアスマでいい。お前の親父でも兄貴でもないからな。ほんとうじゃない適当な呼び方つけるなよ。そうだな、十六までは面倒を見る。何があってもお前の面倒を見るから、そっからはお前が決めろ。紅」 今考えれば酷い台詞だ、と紅は思う。内容はさておき、いきなりひきとられた幼いこどもにむけるものではないと思うのだ。 …結局、十六を向かえるまでおとなしくここにいる自分の言うことではないかもしれないが。 アスマは確かに父親ではなく、兄でもなかった。共に暮らし会話をし時には相談もする。それでも家族ではなかった。育てる、という意味では昔からここに勤める3人の大人達の方が家族だったと思う。紅が十を越える頃から仕事が忙しくなったようであまり家に帰らなくなったし。祖父が大きな財閥の長で、ひとつの会社をまかされているのだと聞いたことがある。その仕事関連でカカシやイルカという男達と知り合ったらしい。 カカシとイルカ。 自分を「紅さん」と呼ぶイルカに「紅」と呼ぶカカシ。 紅自身は「イルカ先生」「カカシ」と呼んでいる。イルカには一時勉強を教えてもらっていたことがあるからだ。紅さん、と呼んでくれるのは嬉しかった。カカシの様に呼び捨てで言い合えるのも嬉しかった。どちらも、紅をこどもではなく一人の人間として対峙してくれるからだ。 アスマの友人である男達は、ふたりともそのまま紅の友人でもあった。 何ヶ月ぶりかに会う友人を思い、紅は笑って日記を閉じた。 前に会った時はわんわん泣いた覚えがある。いつもいつも、アスマにできない相談は二人が聞いてくれているから。「すきなのに」と繰り返すだけの自分に付き合ってくれた人達。 「ま、変わらず好きなのよね」 自身に言い聞かせる言葉。 部屋を出て、アスマの部屋がある方向を睨む。 「いい加減に認めて、観念しなさいな」 あの髭。 そうして学舎への道を駆けた。 ふわ、と風が駆け抜けたのを感じてアスマは振り返る。 黒の外套がはためいたかと思うと、いつの間にかそこには銀髪の男が立っていた。 「カカシ」 「はいよ、お久しぶりー」 何処をどう通ってきたのか、いきなり私室に現れた相手に対しアスマが驚くこともない。紫煙をくゆらせて椅子を勧めた。 「イルカはどうしたよ?」 「お仕事しに学校に行っちゃったよ、紅んとこの。寂しい俺はお前で暇でも潰そうかってね〜」 仕事ねぇ、とアスマは呟いた。 深く探ればこちらにもややこしいことが降ってきそうでそれ以上は何も言わないが。 カカシを視界の端にとめたまま、机の上の書類にサインを入れていく。カカシはうろうろと部屋を探検し、書類を覗き込み、気が済んだところでようやく椅子に座ったようだった。 「で?まだ紅嬢は喰ってないの、お前」 「馬鹿が」 喰うとか言うな。アスマは一度髭を撫でつけてそう言うとまた書類を捲った。ぱらら、と乾いた音が部屋に響く。突然の言葉にだって驚くことはない。こういう奴だというのは骨身に染みてわかっている。 「喰う、デショ。セックスってそーゆーもんじゃない?」 にたにたと笑う様はチェシャ猫のようで、吹きかけられた煙をひらりとかわす様もまたしなやかな獣のように見えた。この男の深淵はとんでもないところにあるのだろう。 それを愛しいとだけ言う黒髪の男を脳裏に描き、アスマはさらに溜息をついた。 ――今語るべきはそこじゃない。 「…あいつは俺しか知らねぇ」 「そーだね」 俯いているこどもがいた。こどもは前を向いとくもんだ、と声をかけた。 俯いた頭にがりがりに痩せた身体はアスマの中で「らしい」ものではなかったのだ。 ただの餓鬼だったのに、あっという間に変貌を遂げるのは女というイキモノの特性なのだろうか。いつの間にか「女」の目を向けてくる。 「否定する気はねぇよ、アイツは俺に惚れてるんだろ」 それはもう当人達さえ含めた事実。紅のそれを認めている、と口にしたことはないけれど。紅は必死にアスマへの感情が恋愛だと伝えてくるがもうずっとかわし続けている。本当は認めているけれど。認めてしまえば、答えがいるから。 逃げの思考に苦笑し、アスマは苦い言葉を吐いた。 「俺しか知らねぇから」 「らしくないねぇオッサン。俺は紅嬢を見た時からこうなるかなぁと思ってたけど」 アスマはカカシに目を向けずその横に腰掛けた。ギィ、と大きな一人掛けのソファが軋む。右側面にある傷は幼い紅が付けたものだ、と不意に思い出す。冷えた紅茶をポットから注ぎ続きを無言で促せば、カカシは楽しそうに笑った。 「だって、会う度にお前好みに成長してるんだもん。しかもアスマ大好きときた」 無意識にか、常に同じ空間にあるせいか、紅はとてもアスマ好みに育っているとカカシは思う。無意識なのはアスマなのか紅なのかはわからないけれど。例え無意識でも、アスマは紅に自身が好むような指針を与えているのかもしれないし、逆に紅がアスマの好むものを自ら拾い上げて身につけているのかもしれない。まぁ当人達の自由だ。 「あいつは俺しか知らねぇだろう。今はいい。ただ、あいつがこの先そうだとは限らんわけだな」 「弱気〜」 半分ほどしかその身を煙に変化させていない煙草を灰皿に押し付ける。わからないほど僅かな灰の崩れる感触に続いて、じり、と焦げた黒い部分と存在意義を果たせなかった茶色い粒が鳴った。 自分の半生も生きていない紅はこれから先どうなっていくのだろう。 良い女になるのだろうな、と考えてアスマは少し口の端を持ち上げた。それから新しい煙草に手を伸ばす。 認めることは簡単なはずだ。認めていると伝えることは。 抱くことも。自分の女にすることも。 理路整然と説くことが出来ない感情だからこそ恋情なのだとアスマは思う。だから、踏み切れないのはきっと。 「この先どうなるかわからんだろ。今の俺の歳にあいつがなった時、横にいるのは定年近くの爺予備軍だしな」 爺を横にして、同じ世代の男や恋人同士、夫婦を見るだろう紅はどう思うのか。そこに後悔がないと断言できるのか。普通に考えて先に逝く男を傍らに。 自分の想いは一時しかプラスにならないのではないか。 「あぁ」 幾度も繰り返したらしくもない思考に再び嵌りかけた時、カカシがぽつりともらした。 「なるほど、わかった。お前は怖いんだ」 紅がどうとか、後悔させたくないとか、多分それは全てが間違いではない感情なのだろうけれど。 結局のところは。 「アスマは怖いんだ。受け入れて、その先で捨てられるのが」 じじじ、と燃える音がする。一気に赤い部分を増し、すぐ灰へと姿を変える。深く深く煙を肺に収めたアスマは肯定の代わりに天井へ向かって紫煙を吐いた。 どれだけ紅のためを思うようなお綺麗な言葉で飾り立てても、結局はそこだ。個人の感情が優先される。これから生きていく、経験を積み重ねていく紅が自分を見限る時――見限るとまではいかなくても、他人を選んだ時、耐えられるのかと問われれば返事に困る。 今ならまだいい。まだ自分は親代わりだ。育ててきたなどとはとても言えないが、保護者としての役割は十分に果たしてきたと思う。 ただ、この立場が「恋人」に、紅が自分の「女」になってしまえば。 「悩める髭ってのも面白い光景だねぇ」 くくく、と喉を鳴らしてカカシがアスマの煙草を奪い去った。目で咎めれば、もう吸うトコなんかないよ、と白い指先でいつの間にか吸い殻が増えた灰皿の中にそれを放り込む。 「ま、悩め悩め。恋に障害は付き物デショ」 「…お前ェに言われてもな」 「あーら何ソレ。俺とイルカさんの愛のイチャパラ叙事詩を語れっての?もったいないからやーだよ」 「妙に濃そうだから遠慮すらぁ」 こどもに、紅にするようにカカシの銀糸をくしゃりと掻き混ぜれば上目遣いに視線を寄越された。いつも弧を描く瞳は濡れた表面に光を反射する。マナザシ、という言葉をアスマは思い返した。今、自分はカカシの目に射抜かれている。眼差し。眼刺しと書く方が正しいのかもしれない。 「ま、世間の目ってのはちょっとばかし厳しいかもしれないけどねー。髭の生えた源氏の君は似合わないし〜…俺とイルカもそれなりの風当たりは受けてるけど」 気にしないが勝ちだよ。 「ゲイでか?」 「俺達二人ともそういうワケじゃなかったからねぇ。まぁいろいろでしょ」 言ってカカシはするりとアスマの輪郭に指を滑らせた。男相手で性的に反応するような嗜好は持っていないが、目の前にいる人間は男好きする人間なのだろうと思う。 「マイノリティだっつー自覚はあるけどね。異端者だとはこれっぽっちも思ってないから」 人として間違っているなどとは。 「好きにしろとしか思わんがな」 呆れたような声音での台詞にカカシは大きく笑った。突然の反応にアスマが少し目を見開けば、苦しそうに息をつぎながら腹筋を震わせて告げてくる。 「何だよ」 「馬っ鹿じゃねぇの、アスマ、はははっ、あー腹痛いっ、そーっくりそのまま、お前への言葉だっての、その、言葉」 こころの真ん中にぽつりと、重力に従って落ちた言葉は軽いはずなのに深く跡を残した。 「好き」なんだから「好きに」しろっての。 しょうがないんだ。 学友に別れを告げ、帰宅のため足早に校舎の間を歩く。 接待室の窓からひらひらと手招きするイルカを見つけて思わず大声を上げた。 「イルカ先生!」 「こんにちは。お久しぶりです、紅さん」 まぁ入ってください、まるで自分の家に招くような気安さで紅を部屋へと誘う。室内にはイルカの姿しか無く、それならば、と紅はこっそりお邪魔することにした。 「お仕事なの?」 「ええ。しばらく待たされるので暇してたんですけど、ちょうど紅さんが窓から見えましたんでお呼びしてみました」 部屋の奥に入り、かちゃかちゃと陶器の触れる音をさせているイルカは客に見えなかった。鼻歌を歌いながら茶葉をポットに放り込んでいる。 しばらくその平和な光景を眺め、それから紅は話しかけようとした。しかし会話のきっかけはイルカに奪われる。 「で、アスマさんとのことは進んだんですか?」 目を見開き、幾度かまばたきを繰り返す紅を見てイルカはゆるく笑った。 運んできた紅茶の匂いが部屋に満ちる。 「いえ、話したくてたまらないという顔をしてましたから。相変わらず進展無しですか?」 まぁアスマさんらしいといえばらしいですけどね、言われた言葉に眉を顰めて返した。。 「だって。私は、アスマが好きだって言ってるのに…ああ、嫌になっちゃうわ」 明るい色をした紅茶にぽいぽいと角砂糖を放り込む。普段は入れないで飲むことの方が多いが、今は何となく甘ったるいものを飲みたいと思った。さらにどこから持ってきたのか、クッキーを皿に入れて運んできたイルカにひとつ礼を言ってから頂けばイルカがやわらかく笑う。 アスマが好き。 それはもう当然の事実だ。幼いと言われようとも、錯覚と諭されようとも。紅自身の中でしっかりと恋情として認識されているのだからどうしようもない。 「人それぞれだとは思うけどね。イルカ先生だってカカシのこと好きなんでしょう?」 おそらくは似て非なるもの。だけど同じように。 「ええ」 きっぱりと言い切ったイルカに目を向ければ穏やかな笑みが返ってきた。やさしい黒い瞳。その視線が捉える先は紅か、その向こう側、イルカだけに見える誰かなのか。 「使いまわされた言葉で表現するなら、愛してますよ。あの人が俺の全てとはとても言えませんが…ま、それに近いほどには」 「御馳走様」 からからと紅は笑った。 ゆるやかに風が吹き、窓辺に生けられた季節の草花を揺らす。 「ずるいのよね。ホントに。色々あるんでしょう、だってアスマは私より沢山生きてるもの。経験なんてどうあがいてもしょうがないのに。どう頑張っても年齢差ってのは縮みもしなきゃ開きもしないのよ」 きっと年齢差を気にしているのだと紅は思う。幼いから、それだけの理由でこちらを、感情すら受け入れてくれない。普段豪快な采配で仕事をこなすというのに、アスマは紅のことになれば途端に慎重になる節が昔からあった。 「ありますよ、縮める方法」 「え」 瞠目する紅にイルカは喉を鳴らした。懐から、ぴ、と一枚の紙を取りだして一部分を指し占めす。Aというアルファベットが三つ並んだ枠の中には普通に生活するならお目にかからないであろう金額が書き込まれている。 「コールドスリープ。現実的でしょう?ウチで扱うならそのお値段から交渉スタートです」 ま、カカシさんの許可を得ることが絶対条件ですけど。イルカはそう言って再度喉を鳴らした。 「イルカ先生…カカシみたい」 まだ一般的には夢見物語とされる方法を簡単に提示され、それでも態度の方に感想を覚えて呟いた。今度はおそらく意識的にだろう、にぃ、と目を細くする。まさしくカカシと同じ動作だ。 なるほど、確かにその方法なら年齢差――正確には肉体年齢差を縮めることが出来る。アスマと近い年齢まで自身が育つのを待てばいいだけの話。だけど。 「目の前で眠っているのを」 ふ、とイルカは窓の外を見遣った。 「紅さんが耐えられるなら、という条件付きの話ですが」 笑んだ形のままの瞳、奥に焔を感じて紅はぶるりと身体を震わせた。途方もなく深い。そして暗い。そうして思い当たる事実の推測。 「カカシがそうなったことがあるの?」 言葉にしてから言うべきではなかったか、と少し後悔する。しかしイルカは曖昧な表情で笑い、とつとつと口にした。 「目の前で寝ている身体が動かないんです。どれだけ呼びかけてもね。反応が返らない。死んでいるようだ。認めたくない、生きているはずだ……貴女ならそんなことはないとは思いますが、俺は気が狂うかと思いました」 あのひとが「いない」という事実だけで。 カカシとイルカが一体どんな仕事をしているのか紅は知らない。貿易商とその秘書だという表向きのことは知っているが、違うことを生業にしていると感づいていても訊ねられる空気は存在しなかった。紅がまだ幼いという以外にも告げられない理由があるのだろう。まだ彼らの裡に踏み込むことを許された者ではないから。――いや、アスマだって、踏み込んでいるかと聞かれたなら首を横に振るかも知れないが。 「まぁ実際のところ狂っているのかもしれませんが、俺には正気と狂気の区別もよくわかりませんし」 ぽん、と紅の肩を叩く。 「俺はあのひとが好きですよ。それでいいじゃないですかね?」 どう足掻いたって、悩んだって。 好きなものは好きだ。 いつか今を過去として振り返った時に認めることができなくとも、 この瞬間には確かな真実。 しょうがない。 それでいい。 そんなもんでしょ、とふたりの男が同じ刻、違う場所で笑った。 「誕生日おめでとう」 少し早いけれど、と付け加えていきなり現れた男ふたりは短い滞在の末、またどこかへ旅立ってしまった。 もう何分かで十六歳。自室で紅はぼんやりと天井を眺めた。明日の朝に、これからどうするかアスマに告げなければいけない。自分はどうすればいいのだろう。いや、性懲りもなくべったり貼り付いているのは性分に合わない。 この気持ちが恋情であると、認められるような、告白が出来ればいい。 かわされなければそれでいい。 でもどうすればいいのかわからない。 寝台の中でごろごろと寝返りをうちながら考えても大した案は浮かばなかった。カカシはにやにやとつついてくるばかりだったし、イルカはそれをたしなめながらも笑っているだけだったし。まぁ、答えがあるものでもない。それぐらいは紅だってわかっている。 こども扱いされるのは不満だが、自身がこどもであることはちゃんと理解しているのだから。理解しているが故に余計タチが悪いのだけれど。 この屋敷に来て二度目の誕生日に、三人の使用人達が贈ってくれたクマのぬいぐるみを抱えてもうひとつ寝返りをうてば唐突にノックの音が聞こえた。 「はい?」 「俺だ。いいか」 「…うん」 今まで思考の中心にあった人間が現れたが、そうか、と紅は思った。 ち、ち、ち、と秒針が時を刻む音。部屋に響くそれを五月蠅いぐらいに感じてしまう。 腕の中のくたびれたクマはヘッドロックをかけられているというのに文句も言わず、やわらかさを与えることで紅を励ましているようにも思えた。 別に出てこなくてもいい、と言われたので枕に背を預け半身を起こしている。招き入れたアスマは部屋の中央においていた椅子に足を組んで座っていた。 やがて、カチリと音がして。 「――日が変わったな」 「そうね」 誕生日だ。紅の、十六歳の。 早めにどうするか問いに来たのだろう。アスマらしいことだ。遅らせれば遅らせるほど、色々な意味でややこしくなることはもうわかっているのだから。 紅が何も言わずに俯いていると、ふいに大きな手が前髪を梳き上げた。 大きな体躯なのに何時の間に近づいてきたのだろう。 「ま、おめでとさん」 それこそちいさい子どもにするように、髪を掻き回される。 しばらくその感触を享受していた紅は真っ直ぐに前を向いた。見えるのはアスマの顔。あまり変わったようには思わないけれど、それでも記憶の中、最初に会った頃よりは老けて見える。 するりと離れていった指先を目で追い、その手を見て唐突に時を感じた。 手なんて毎日見ているものなのに。肌の具合、ちいさな傷、そんなもの。 「で」 時の流れはいつだってとまらない。 「どうするよ?」 「アスマ」 「おう」 ひとの感情というものも同じだ。 「正直な話、ここを出ることができるほど私は自立してるわけじゃない。学校にだってまだ行きたいから。でも、出ていくかどうかとかいう前に」 学舎へ行かないのであれば働けばいい。働けば女一人生きていくだけの生活費ぐらいは稼げるだろう。 「アスマ」 お願い。 「アスマ」 身体の横で所在なさげに揺れていた腕、拳をぎゅっと握る。 潰れてしまえ、怯える自分など。 何度も呟く名前は感情と強さを引き出す鍵になる。 「アスマ」 お願いだから、どうか。 「…アスマ」 逃げるな。 「すき」 幼いこどものように。こどもにしか見られないことを何よりも嫌がったはずなのに、しっかりと自分の想いを目の前の男に伝えようとしているはずなのに、出てきた言葉はひどく単純な二文字だった。 逃げ場を失わせるほどの言葉を叩き付けてやりたかったのに、と紅は自嘲する。 しかし出てきた言葉は一番こころのうちを表していると言っても過言ではない。結局、胸に溢れてしまっているものが素直に出てきたのだ。 すき。 アスマが好きだ。 審判を下される罪人の心地で紅は瞑目する。布擦れの音さえ聞こえない部屋で、どれだけの時間がたったのかわからない。きっととても短いのだろう。 カチン、と安っぽいライターの金属音が響いても紅は瞳を閉じたままだった。 「――知ってる」 一呼吸の間を置いて告げられた内容は求める答えとは違っていたけれど、胸の真ん中に飛び込んでくるものだと紅は思った。 のらりくらりと紅の感情から逃げていた男が「知っている」と言った。紅がアスマを好きだと。向ける感情が「恋」であると認めた、そう言っているのだ。 この駆け引き自体は恋愛ではないし、勝ち負けなんてものも存在しないのだけれど。勝った、と。誇らしい。 嬉しいとか驚いたとかいう感情の前にどうにも胸が詰まり、思わず目の端に涙が溜まる。ワケがわかるようで全然わからない。 …あぁ、今、恋をしている。 初めてのはずなのにそう思ってしまう。初めて、とはいっても長らくアスマだけに持ち続けてきた感情だから馴染みのものなのだけれど。 紅が感情の波に浚われて何も出来なくなっていると、アスマが大きく溜息をついた。ふーっ、と音が聞こえるほどおおきな、大げさな。意図は知れない。 「私は、」 此処にいたい、アスマの側にいたいと告げるために口を開けば、額に指を添えられて簡単にベッドへ戻されてしまった。冷えるから寝ながら聞け、と乱暴な言葉が行動にともなわれる。やわらかな毛布に抱き込まれる形になり、アスマはというとさっきまで座っていた椅子を引いて寝台の横へとつけた。座る動作で、煙草の香りがふわりと顔へ落ちてくる。 「俺も色々考えてみたんだがな」 「うん…」 毛布の上に投げ出されている紅の腕はアスマにたやすくとられてしまった。幼子をあやす仕草で、指先を互い違いに組み合わせる。第二関節より奥では絡まない指が、感触を楽しむようにちいさく揺らされた。 ごつごつした骨の質感が伝わってくる。アスマも自分の指先、比べれば大分小さいそれの肌を味わっているのだろうかとぼんやり考えた。 「十六まで、ってのはとりあえずの区切りにするつもりだった。一応、大人と認められる年齢ではあるわけだしな。何回も言ってるけど俺はお前の親じゃねぇし」 「こんな熊が親じゃ困るわよ」 「言っとけ」 不満を表してか、ぐ、と一度だけ強く指を握り込まれる。一動作だけで空気は常の、恋情を感じさせないものに変わった。 自分がわざわざ茶化してきっかけを作ったとはいえ、それを残念に思う。アスマがこれから話すことはわかる。此処にいてもいい、と言うのだ。それは紅自身も思っていたことだし。 また、昨日までと同じ日々が続く。 紅の「恋」を、アスマが認めてくれたことは大きな進歩。 とりあえずはそれで満足しよう、とひとりこころのなかで呟いた。 あきらめてなんかやるもんか。女の貴重な初恋、アスマにしか「男」を感じなく育った責任は取って頂こう。 「保護者、っつー役は降りる。ま、でもお前の家は此処だろうとも思うのな」 「うん」 「だから」 想いが遂げられるわけではなのに、予想していた、それでも嬉しい言葉。 「此処に。いろよ」 頷く。 居ることを許される、これだけで嬉しいだなんて、ほら、彼も言っていたじゃない? 「…しょうがねぇ、か」 思い返した言葉が囁きほどの不確かさでアスマの口から出てきたことに紅は瞠目した。見える先で男は俯き、額に自身の手ごと紅の手を当てている。 祈るような仕草はあまりにも珍しい。祈るのは勝手だが祈る間に考えろ、動け、と豪快に笑う姿こそよく見るもので、そしてこの男に似合うものなのに。 「アスマ?」 大きな手のひらに覆われている紅の手がアスマの顔を撫ぜるように動かされ、手のひらの真ん中より下に鼻を感じる。外側の指二本、その付け根あたりにあるのはおそらく瞼。 ぱち、ぱち、とまばたきで黒い睫毛がそこを擽った。 「アス――」 もう一度呼びかける途中。恐ろしいほどに熱い吐息を手首に感じて紅は息を飲む。 一瞬だけだったそれが無くなるとひどい冷たさを紅は感じたのに、熱は全身に移動して身体を焼く。 制御のきかない身体の一点、冷たい場所へ神経が集中した途端に濡れたものが押し付けられた。 「―ッ」 ちり、と。 何かはわからないが、焦げたのをはっきりと感じる。 離れていった唇、薄く開いた中に見える粘膜、手とも手首ともつかない場所にうすくついた痕。そして、自分自身のこころ。 全てが、紅い。 「寝ろよ」 呆けている間にアスマは座っていた椅子を元の位置に戻し、すたすたと扉まで歩いていってしまう。起こったことが信じられない頭は、普段アスマのやりそうなことなど予想がつくのに、まったく読めなくなってしまっている。 だから身体を半分廊下に出したアスマが振り返っても、何を言うのか全くわからなかったのだ。 「アスマ」 勝手に口から出てくるのは、自分の中で一番力を持つ言葉。 「紅」 俺も、と男が口にしなかったことはこのことを思い返す時、紅を酷くしあわせにさせた。付け加えるなら、予想していた「いてもいい」ではなく「居ろよ」と言ったことも。 とにもかくにも。 「すき、だ」 一息に言わなかったのは照れの成せる技なのか。 紅が思わず、扉の向こうに消える男へ言ってしまったことも、全て。 「――知ってたわよ」 しょうがない。 閉まる扉の僅かな隙間、見えた瞳は弧を描いていた。 しょうがない。 それでいい。 …そんなもの。 了
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唐撫子は紅+紅の重ねの名称だったかと。
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