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point  盃で月を干す/佐竹と鳴海(雷ナル♀)
2012年03月05日(Mon) point
 何枚かの壁越しに聴こえるやわらかな嬌声を割いて、鹿威しの硬質な響きが部屋の中央を走った。丁寧にととのえられた美しい庭からは細い風が入り込んでは溜まりがちな酒精を掻き乱していく。


 何時もと変わらない酒宴は鳴海が暇を告げることで終わりが決まり、細長い身体が上着を纏うのを眺めながら佐竹は酒を舐めていた。

「ん?」

 見られていることに漸く意識が向いたのか、酒精で僅かに頬を染めた女が任侠を見る。瞳に滲む穏やかさがいっそおそろしいものの様に見えて杯を一気に呷った。元から底知れない女だとは認めていたが、畏怖に近い感情を持ったのは最近のことだ。
 例えばその細い腕を掴み、強引に畳へ転がし組み伏せたとする。そうすればわざとらしさが透けた驚きの瞠目ひとつぐらいをこちらに寄越し、あわく笑って指を首筋に絡ませてくるような女だと佐竹は知っていたのだ。似たような体験を過去の記憶から拾い上げるのは容易い。
 ただそんな女でも、雷堂の情人という立場にある今では手を出しても応えることはないだろう。鳴海はあの書生を酷く大事にしている。決して短くはない付き合いの中、どの「女」もあんな様は見せなかった。
 そう思っているのも確かなのに、誘いを冗談にして流そうとするのを誤魔化さず、本当に押し通すなら鳴海は身体を許すだろうという奇妙な確信もあった。
 葛葉雷堂という男を気に入っている己がそんなことする気は更々ない。ないけれど行動すればきっとそうなる。
 そしてそれを、二人ともが知っているのだ。

 女はただひっそりと口の端を持ち上げる。
 その性が持つ独特の勘は、佐竹の畏れに気付いていることだろう。


「健ちゃん」
 「……健三」

 肩越しに振り返った鳴海の眼は硝子向こうで判りづらい。
 佐竹の耳に滑り込む声はいつかの響きを重ねて奥底へと沈んだ。

「ありがと」
 「感謝する」

 いつか見た過去だ。
 眼鏡など無かった。化粧や細工で形が変わっても、瞳の奥を覗き込めば何時だって諦観が透けて見えた。
 癖毛は長かった。姿に合わせ時には失われるのを惜しく思ったこともあるけれど、いつも佐竹の指を絡め取りあまく誘った。
 強かった。
 同じだけ弱かった。捨てるものすらない持たない潔さが決して同じにはなれない己にはいっそ崇高なものにさえ思えた。
 だからこそ。

 振り返る鳴海に重なって見える、くせ毛を纏めた着物の女を佐竹は知っている。声音までもが重なって鼓膜を揺らす。実際に今、女の声はひとつしかないとしても。


「お前はいい男だよ」
「お前はいい男だよ」


 三つ揃えのスーツを身に纏う女がいつか見惚れた笑みを口元に浮かべた。硝子向こうの瞳はあの時と同じ色を浮かべているんだろうか。

「またな」
「ああ」

 あの時己の腕は細い女の体躯を見送ったのだったか掴んだのだったか。思い出せない、と自分にひとつ嘘を吐いて佐竹は紫煙を口に含んだ。その間に振り返らない背中は襖の向こう側に消え、うっすらとした足音が遠ざかっていく。
 目を閉じれば眼裏によみがえったのは真っ直ぐな背と瞳を持つ書生の姿だ。いつも不遜に近い程堂々とした態度の少年が、年相応の青さを滲ませて先日言い放った言葉は今も耳の奥に居座っている。迷惑な話でしかない。


――あの人は我のだ。
  今後手出しするというなら全力で相手をさせて頂く。
  選ぶのは鳴海だが我は決して引かん。
  相応の覚悟が無いなら遠慮願いたい。


「阿呆らし」

 眼裏の書生に呟くと佐竹は煙を吐き出した。不確かな白さは襖へ辿り着く前に霧散してしまう。当たり前のことだと思ってさらに酒を呷る。鳴海に選ばせた銘柄の口当たりはなかなかに好みのもので、全部とっぱらっても酒の趣味と量が合うだけで貴重な女のツレだ、と佐竹はそこだけは素直に認めた。

「儂が惚れとったんはお前と……」


 ああ酒が不味い。不味いから美味い。それも一興。
 知っていたことだ。


「……鳴海とちゃうわ」

point  てのひらに踊る/新妻雷堂
2012年03月05日(Mon) point
 帝都での生活に漸く慣れたと思える様になった頃、雷堂は風邪を引いた。

「あーあー、かわいそうに」
「ッ、ぅ」
「喋ったら咳出るんだろ。いいから寝てなさい」

 いまだ雷堂の「輿入」に対して思う所があるらしく、鳴海は上司兼保護者としてしか接してこない。ことあるごとに「お前の好きにしなさい」と言われる意味をそのまま受けて雷堂は妻らしく過ごすことに努めていたが、今の体調では唯一妻らしいと思える家事すらとても出来たものではなかった。
 たったひとつ胸を張って妻だと言えることもできず、認めてもらえないが夫に看病迄させて。
 夫だから、だけでもない。いろいろあっても結局この身は上司として保護者として一人の人間として鳴海には世話になっていて、だというのに迷惑をかけている己が酷く情けなかった。
 召喚師としての任務で幾ら冷気を浴びようとそれは言い訳にもならない。

「ま、どんだけ回復しても明日は学校休みな」

 鳴海は大きな手のひらでくしゃりと雷堂の黒髪を掻き乱し、それから額に冷えた布を置き直した。自らの熱が奪われていく感覚は心地良い。一通りの世話が終わったと見て取ったのか、目付けがのそのそと布団の上を移動して枕の横で丸くなった。
 雷堂が自己嫌悪にどっぷりと浸っていることを賢しい年長者達は見越しているのだろう。召喚師として妻として人として、そんなに自分を責めるもんじゃない。思っていても言わずに居てくれるのがわかるからこそ余計に情けないのだ。そう思って放り出していた手を知らずぎゅっと握りしめれば、なにかつめたいものが触れてきた。鳴海の手だ。

「……つめたい」
「そりゃあ俺の心があったかいからだ」

 軽口へ応える様に、黒猫の尾が一度布団を叩いた。へらりと笑った鳴海がどうでもいい言葉を続ける。治ったら何が食べたいから作れだの、パーラーの新作を食べたいから付き合えだの。聞き慣れた声を熱で浮かれた頭に通過させる作業の傍ら、雷堂は握った拳がゆっくりとほどかれていくのを片隅で感じていた。
 固い指先が雷堂の指を一つずつ広げる感触に奇妙な程安心して、意識はたちまち夢の世界へ引き摺られていく。治す為には睡眠が最善の策だとわかっていてもどこか名残惜しい。拳の形からすべて広げた手のひらを布団へ撫ぜつけて去って行く指先が惜しい。ほとんど意識が曖昧なまま、眠りの縁でどうにか雷堂は固い指先を掴んだ。
 掴んだ気がしたというのが正直な所だ。


 ふっと覚醒した雷堂はまだ怠い身体に鞭を打ってとりあえず半身を起こした。業斗はいつのまにか足下に移動して丸くなっている。その移動に何か意味はあるのだろうか、などと考えながらぐらぐらする頭で卓上の水差しを取ろうとした。その時になって漸く雷堂は自分が大事に何かを握っていることに気付いた。
 意識が堕ちる前に鳴海の指を掴んだ気がしたが、空想だったのだろうか。そもそも事実だったとしても鳴海の姿がこの部屋には無い。なら己は今何を掴んでいるのか。
 おそるおそる開いた手のひらにはしわくちゃの紙が一枚鎮座していた。
 これが綺麗な半紙に呪いでも書かれていれば誰かの式でも捕まえたかと思うところだが、紙は雷堂がメモ書き用に机へいつも置いているものだし、何より歪ながら人の形に切られている。そんな紙の真ん中には走り書きで「所長さん」と記されていた。
 とりあえず水を飲みながら紙を眺める。指を掴んだまま寝入った雷堂を起こすことも出来ず頭を抱え、器用に片手で紙に細工してそっと指と取り替える鳴海を想像してゆるく笑った。


 その後二日程で雷堂の風邪は完治し快気祝いにと銀座で夕食までしたが、不格好な紙切れのことを鳴海も雷堂も口にはしなかった。ひょっとしたら都合のいい夢だったのか、と何度思ったか知れない。熱の見せた錯覚だと。それでも。

 帝都に来てからの年数を指折り数える様になった雷堂の胸元に、「所長さん」と走り書きされた人形の紙が今日も丁寧に畳んでしまわれている。

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