記憶に残る夏の匂い。

イメージは白。と、薄い赤。褪せた草の匂い。












 昔はよく、イルカと散歩をした。
 俺には、アイスを奢って貰えるというメリットもあって、別に金に困るようなことはない嫌味なこどもだったけど、イルカにもらうアイスは何だか美味かった。てくてくと近くの神社までの坂道を歩く、その時間は間違いなく心地良い時間だったのだ。

 離れる時だって散歩をした。
 特に何をするわけでもなく散歩をする。
 とりとめのない話をする。


「すぐアイス溶けちゃーうよ、イルカせんせ」
「そうですね。暑いですから」

 夏は暑いもんですから当たり前です、そう言う声は普段と何も変わらない。
 イルカは小豆の入ったのが好きで。
 俺はいつも袋に牛の絵が描いてあるあまいミルクバーで。

「どーなるのかねー」

 イルカは何も言わずに懐から煙草を取りだした。
 俺の前でだけは隠れずに吸っていた。悪びれもなく吸うモノだから意外に思うよりも先に、俺は目の前の人間はこういうひとだとえらく簡単に納得してしまった覚えがある。
 星のマークがかっこいいと思ってた、俺の髪と同じ銀色、セブンスター。

「俺は、…先生と離れたくないけど」

 いつも一歩下がるイルカはこの時も俺の後ろにいた。多分、煙を吸わせないために風下を歩く。
 歩きながら吸うものだからイルカの後ろに煙がたなびく。
 ゆらゆら。
 ジャワジャワ蝉の鳴き声、砂利道とサンダルが擦れる音、乾いた風。
 揺れてはどこかに消えていくしろいけむり。
 生まれてはすぐ消えてしまうのが不思議でしょうがなくて、当時はよく眺めていたものだ。

「しょーがないでしょう。旦那様方がお決めになったことです」

 イルカは散歩の時だけひっつめの髪を下ろしていた。
 煙草とか、髪型とか。そういうものが現れるのもこの散歩の特権なのだ。
 先のそろわない黒髪の向こう、白い首筋。

 俺はまだもそもそとアイスを舐めながら、一点を見る。

 首の、朱。

「会えばいいでしょう。俺だってカカシさんに会いたいです。会いに行きます。…カカシさんも」


 朱。







「会いに来てくれるでしょう?俺に」





 ……結局、俺は今、四年ぶりにイルカと会っているわけだが。



「イルカせんせもじーさんと暮らしてるわけじゃないんデショ?」
「え」
「……出ていったって。聞いたから。親父からのまた聞きだけど」

 何で今更ここにいるんだ、とか。
 今までどこいってたんだ、とか。
 俺のところにきた理由とか。
 
 もうお互い兄弟だと知っているのに昔と変わらない接し方とか。
 いや、これは俺だけが知らなかったのだからしょうがないのかもしれない。
 聞きたいことが、山ほどありすぎて、でもどれも口に出せない。

「なーに、一人暮らしなら俺にぐらい住所教えてくれたっていいデショ?水くさいなもう」
「すみません」
「良いけどさー別に。何、先生でも何でもないって?」

 重くなりそうな空気を変えたくて、軽く言ったはずなのに。
 それに答えて軽く謝ったはずのイルカが一瞬、表情を無くした。
 ように見えた、けど次の瞬間には俺を小突いた。

「生意気なこといってんじゃねぇ若造がー!!」
「あだだだだだだだ痛い痛い痛い!!ぐるじいーー!!」

 ぎゅうぎゅうとヘッドロックをかけられる。
 昔やったプロレスごっこを思い出す。
 あのときはイルカに殆ど勝てなかったのに。いや、素早さで負かしてたけど。

 同じくして、耳元に落とされる言葉。


「…逃げ出して、きました」


 心臓が、止まった気がした。

「風呂借りますね」

 ひっつめていた髪を下ろしながらイルカはもう風呂に向かっている。
 何事も無かったかのように。

「イルカせんせ」
「何です?」

 いつも通りの笑顔。
 変わらないはずなのに。
 さっきは変わらないと思ったはずなのに。

「明日ねー、」

 酷く、

「どっか行こ?」



 痛い。









 そうして次の日、俺はイルカを引っ張って外を歩いた。
 大したことをしたわけじゃない。
 昔みたいに散歩して、近所の公園でアイス喰って。
 昔話に花を咲かせて。

「懐かしい」

 近所の公園で芝生に座って、コンビニで買ったアイスを渡せば昔と変わらない笑顔をイルカが浮かべた。それはこうして散歩ついでにアイスを食べることなのか、それとも俺がためらいなく小豆入りのを手渡したからか。
 コンビニはすぐそこなのに、ビニル袋から出して口を開ける頃にはもう水滴がいくつも張り付いている。白と黒で描かれたデフォルメの牛が汗をかいてるのを眺めながら一口かじった。あまいあまいミルクバー、ふわりと広がるしろい味。昔は散歩のとき以外嗅ぐことのなかった、今では俺に、そしてイルカにも染み付いてしまっているらしいかすかな煙草の香り。パンツのポケットから覗く星柄、銀色セブンスター。

 口の甘さと独特の香りときらきらひかるもの。
 あの時の俺の、夏が全部目の前にある。

 そうして俺は、やっぱりイルカの首を見ていた。

 無意識にも意識的にも。

「カカシさん?」
「え。あ、ああ、あ」

 すぐ溶けてしまうアイスクリームのことを言われたんだと思って、指に垂れたのを舐めとっていたらどうやら違ったらしい。イルカの指先はまっすぐに、それこそ俺を通り越した背後を指していた。振り返った先には制服を着たクラスメート。セーラー服の短いスカートが風に揺れる。
 甘えた声で俺を呼んだその子は彼女でもなんでもないけれど、そういえば遊びにいく約束をしていた。今はイルカがいるんだから断らなきゃ、と腰を上げる。
 イルカはどうやら覗く太股に目がいっているらしい。後でからかってやらなきゃ。

 と、俺が気分よく過ごせていたのはそこまでだった。





「あーウザイっ!!」
「んなに怒らなくても…」
「そんなこと言ってもウザイもんはウザイの!!」

 帰り道からアパートに入るまでずっと、ぶつくさと文句を言う俺をイルカがなだめる。
 先生が怒ってたよ、だなんて笑いながらプリントを渡してくれたのは感謝しているけど、約束を断る俺が悪いんだけど、あんなにブチ切れなくてもいいと思う。ウザイことこの上ない。

「しょーもないことで喧嘩しないでくださいよ」
「……」

 苦笑いで今日はイルカが台所に立っている。
 1Kのアパートはどこにいても表情が見えていて、昔俺にホットケーキを作ってくれていた姿が重なって見えた。しゃべりながらも手はとまらないのがイルカらしい。
 それでも俺はいいから行って来てください、とは口にしないくせに。
 そんなずるさはいつ身につけたものだろう。少なくとも昔には無かったものだ。再会してからずっと、昔との比較をしている俺が言うんだから間違いない。

「いーの、別に付き合ってるワケじゃないし…っ」

 いきなり顔を覗き込まれて呼吸がとまる。
 しげしげと観察されて。

「カカシさんが女で悩んでんですもんねぇ…寂しいなー」

 時の流れは残酷だ、と言う。
 そりゃそうだ、イルカがいる頃もオンナに告白されたりとかいろいろあったけど、あんまり興味も無かったしイルカと遊ぶ方が楽しい子供だったのだ、俺は。
 残酷だと零すその顔が近い。

「ねぇカカシさん」

 俺はガラにもなくどきどきしていた。
 なんで男相手に。
 自慢じゃないが今だって、いや昔よりも女にはモテるってのに。

「呼んでくださいよ。『にーちゃん』って、昔みたいに」


「にー、ちゃん…」


 とん、とイルカの額が俺の胸にあたる。
 鼓動がばれそうだ。
 どくんどくん。布越しの緩い体温、神経が全部集中してるのがわかる。

「どっか遠いトコに行こうかなぁ…」

 それは、逃げて?

「ここにいればいーじゃないの」

 気づけば口からそんなことばが出てきた。
 勝手に。本心?知らないけど。

「ずっとここにいてさ、俺とアイス喰ってりゃいいじゃない」
「そんなこと言うとホントに、…ずっと。居ます、よ」


「いーよ」


 言った途端に唇が同じもんで塞がれて。
 塞いでいたものはイルカのそれで、俺は一瞬何が何だかわからなくて、でも触れた部分の熱だけやたらと感じていてぐちゃぐちゃになってしまった。

 わけもなく身体が熱い。

 気づけば俺の方から貪っていて、いつ離れたかも自覚せずにその顔を見る。でもイルカは笑っているのだ。痛い顔で。表面には見えないけれど。

「…飯、喰いましょうか。もうご飯も蒸れたでしょうし」

 イルカがそう言うものだから、俺は頷いて身体を起こした。


 食事をして、別に普段とかわらない空気が続く。
 さっきの激情がなんだったのか俺には理解できない。感情がついていかなくて、状況が理解できなくて、本当なら驚くべきことなんだろうキスの事実が宙ぶらりんになっている感じだ。
 イルカだって何も言わないからほんとうになかったことのようで。

 ただぽつぽつと昔話じゃなく今の話をしたのは、今の俺を知ってほしいという気持ちと、今のイルカを知りたいという気持ちから生まれた行動なのかもしれない。後から思えば俺はこのとき初めて、再会したイルカに向き合ったのだ。
 くだらない近況の中でイルカが一番嬉しそうだったのが学校の話だった。

「はい」

 そうやって相槌をうってくれるイルカの声が気持ちよくて最後にはずっと学校ネタになった。
 つるんでる悪友どもの話、年上の一人が車を買ったこと、最近の週末はずっとそれで海にいって馬鹿騒ぎしていること。くっつきそうでくっつかない二人をどうにかしようと幾人かで仕組んだ話。 
 イルカはずっと笑っていた。

「あはは、青春ですねぇ!」

 そんなことを言ってビール缶を空にするから、結局晩飯は飲み会に近くなってしまった。

 いい気分で飲めば多少は酔っぱらうものの、お喋りは布団に移動しても続いていた。
 狭い部屋で、夏だから雑魚寝でいいやとばかりに寝っ転がるだけなのだけど、布団の上に並んで寝そべり煙草タイム。

「セッタ吸ってるんですね」
「うん」
「おそろい」

 のんびりと喋る様は、俺より三つ年上には到底見えなかった。

 ぽつり、とイルカはゆるやかに話し出す。
 薄暗闇の中で煙草の灯りは蛍のようだ。

「夏休みに、俺が部屋のソファで昼寝してて」

 それはよくあったこと。イルカの気に入りだった青いソファを俺はまだぼんやり覚えている。

「家政婦の方が買い物にいってたから俺以外に誰もいなくて」

 それもたまにあった。イルカは雇用人に人気があったし、よく留守番をしていたように思う。いろんな意味で聡いこどもだったのか。

「…貴方が。カカシさんが外から帰ってきて」

 あぁ。

「俺は何となく、寝たふりしてて」

 おかしい。
 夏なのに、俺は、今、ぞくぞくと。

「カカシさんが近寄ってきて――」

 ねぇ、にーちゃん。
 それってさ。

「あのとき、ここに」

 指の下には、俺がいつも見ていた場所がある。
 ざんばらな黒髪の隙間から見える白い首。

「アト、を、」

 助けて。目眩がするんだ。







「付けたでしょう」









 触れる指先甘い感触セブンスターのにおいかさなるてのひら、俺はおれはおれは



















 俺は昔の俺じゃなくて今もきっとこどもだといわれるだろうけど、あの青いソファに沈むイルカを見て感じたものとさっきは無理矢理わからないものに「した」もの、二つともが何であるかを理解してしまう程度にはこどもじゃないのだ。

 だから。

 セックスの時間なんてものは嵐のように過ぎた。









next >>

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初出20031011/再UP20061113